日本に現存する最古の正史『日本書紀』の「巻二十二推古天皇十二年条」には、
皇太子、親(みづか)ら肇(はじめ)て憲法十七条を作りたまふ
と記述されています。
ここにある「皇太子」とは、私たちが「聖徳太子」として知る人物です。そしてまた、書紀には十七条憲法が「公布」されたという記述が見られないことからも、この施策が推古天皇や蘇我馬子からの要請によるものではなく、太子の自発的な念いから述作されたものであったことが推測されています。
佐藤正英氏は著書『聖徳太子の仏法(講談社現代新書2004)』のなかで、
公に示されることこそなかったものの、その存在を知らない官人はないほどに憲法十七条は広まっていたのではなかろうか。太子は、憲法十七条において学問尼の学問の対象であった漢字漢文の累積を自在に駆使している、憲法十七条を彩る斬新で震旦風の措辞は、新しい意匠の武具や衣装と同様に、多くの官人を魅せずにはおかなかったであろう。(P141)
と記されています。文中にある「震旦」とは中国の古称です。「憲法十七条を彩る斬新で震旦風の措辞」が、太子による「意匠」の施されたものであることは、佐藤氏と同様に、筆者も注目するところです。
◉聖徳太子の事績
『日本書紀』には、太子単独で行われた施策として「十七条憲法の作成」のほかに、勝鬘経と法華経を講じられたことや、日本最古の仏典研究書として知られる『三経義疏』を著述されたことについての記事があります。
東野治之氏は、その他の施策として、
①大楯(おおたて)と靭(ゆき)を作らせ、旗幟(きし)に画を描かせる(推古十一年十一月)
②王臣に命じ、褶(ひらみ)を着用させる(推古十三年閏七月)
という記事が書紀にあることを挙げられ、そのうえで、
冠位十二階の制定が推古十一年十二月、十七条憲法の作成が推古十二年四月ですから、①②はちょうどその前と後になるわけです。①も②も小さなできごととして、あまり注目されることはありませんが、十七条憲法や、冠位制の創設と考え合わせれば、決しておろそかにできない記事です。[『聖徳太子-ほんとうの姿を求めて-』P61]
と述べられています。
推古十二年(604)九月には「朝廷における礼儀・作法および政の進行法を改める」という記事があることからも、推古天皇即位後の11年から13年にかけて、朝廷の制度改革が集中的に進められたことが読み取られます。
東野氏はまた、
①の大楯と靭(矢を入れる武具)は、これまで言われているように、律令制下、天皇の即位儀礼に使われる品々です。また、めでたい絵の描かれた旗や幟(のぼり)も、朝廷の正式な行事に登場します。さらに②の褶は、ヒラミ(またはウハミ)といい、袴を穿いた上に着ける幅の狭い腰巻状の布で、薄織りの絹で作られました。律令制下でも正式な礼服に使用されましたが、初めて褶の登場する記事がこれなのです。したがって①も②も、朝廷の儀礼を整えるため、太子主導の下に行われた施策といっていいでしょう。[P61]
と述べられています。先に引用した佐藤正英氏の「新しい意匠の武具や衣装と同様に」の一文は、聖徳太子によるこれらの施策を受けての記述であると思われます。
推古朝における公儀式の空間を想像すると、女性天皇を玉座に仰ぐ、オリエンタルで華やかな荘厳なる光景が目に浮かんできます。推古期に花開いた、飛鳥文化の極みの景色といったところでしょうか。
聖徳太子は推古天皇のもとで摂政の役職に就かれていたといわれますが、推古朝における政治家としての実働の中心は、大臣の蘇我馬子だったと考えられるのが定説のようです。
これについて東野氏は、「太子の役どころは、中国や朝鮮の書物や制度を調べ、それをもとに倭国に合った制度を立案すること」にあったと考えられています。
十七条憲法の制定は、太子単独の事績とされていますが、完全に一人で執筆して完成されたと捉える必要はないでしょう。複数の知識者によって練られた草案を太子が取りまとめられて、主筆としての文責を負うほどの役割だったのかもしれません。
冠位十二階の制定に関しては、その実務を執行したのは蘇我馬子であって、聖徳太子はその制度の枠組み作りを担うにとどまるものだったのかもしれません。
◉聖徳太子の人物像
東野治之氏は太子の人物像を称して、
行動的ではないが頭は冴え、自分のポリシーをもって外来文化を取り入れる、ある意味過激な知識人というのが、私の抱く感想です。
と述べられています。
大陸から渡来した知識や文化を幅広く理解して吸収するだけでなく、独自に再構築して更に高度なものにしようとする意志が、太子の仕事から読み取られます。卓越した情報収集能力と編集力、そして、確固たる信念に基づきそれまでには無かったものを生み出そうとする独創性が感じられます。
単なるワンマンであっては、これだけの偉業を日本の歴史に残されることはなかったはずです。さまざまな人々との協働のもとに、さまざまな意見に聞く耳を持った「聡い人」だからこそ、和の国の象徴として、今にも仰がれるのではないでしょうか。
比類なきカリスマ性を身にまといながらも強引にトップダウンで推し進めていくのではなく、まさに「和を以て貴しと為す」の姿勢で、人と人との間にあって悠然と立ち振る舞われる「聖徳太子」を想像します。
理想の国の建設という揺るぎないビジョンをもって、さまざまな分野の専門的な知識者や技能者と共に、推古朝のグランドデザインを構想した、総合プロデューサー。コンセプトデザイナー。そのような「聖徳太子像」を、筆者は想い描いています。