古来より受け継がれてきた仏典を 現代にも受け入れやすい言葉で 自分なりに再解釈してみました
どうしてここにいるのかなんのために生きているのか そんなことを 漠然と思いながらそれほど深く考えることもないままにただふつうに日々を過ごしていた ただなんとなく 世間に流されるように暮らしていた 生きてることをあたりまえのように生きていた けれども 否応もなく 気づかされる 現実 生まれた限りは 必ず死ぬ 生まれてから死ぬまでの間を自分として生きている
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聖人一流の御勧化のおもむきは「信心」をもって本とせられ候ふ そのゆゑは もろもろの雑行をなげすてて 一心に弥陀に帰命すれば 不可思議の願力として 仏のかたより往生は治定せしめたまふ その位を「一念発起入正定之聚」とも釈し そのうへの称名念仏は 如来わが往生を定めたまひし 御恩報尽の念仏とこころうべきなり あなかしこ あなかしこ 約2500年前にインドの地で釈尊(
聖徳太子の十七条憲法を、6つの徳目に要約して、六波羅蜜の教えになぞらえて超訳してみました。智慧・精進・布施・持戒・忍辱・禅定
【 第一条 】 和を宗とする人の集まりおたがいの心が和らいで協力しあうことが貴いのであって、むやみに対立したり争ったりしないようにしましょう。それを根本的な理念としなければいけません。ところが人にはそれぞれ自己中心的な執着心があるので、自分の立場に固執して物事を見たり、自分の都合で敵味方の区別を分けたりして、大局を見通している人は多くありません。それだから、身近な人間関係から、問題が起こりがちなの
約2500年ほど前のインドから、人伝えにして、いまに伝えられてきたお話です。あるときシャカムニ・ブッダは、コーサラ国の首都シュラーヴァスティーの西側にある修道施設に、多くの弟子たちとともにいらっしゃいました。その日はちょうど、真西に夕陽の沈む日で、いつにもまして大きく赤々と辺りを照らし輝く太陽を背にして、ブッダは語りはじめられました。 いつもは弟子たちの質問に答えるようにして教え