十二のひかりと無限のいのち

十二のひかりと無限のいのち

南無阿弥陀仏の六文字は
真実の気づきへの
ガイダンスなのだと思います

  • はじめに

    十二のひかりと無限のいのち これからこの琳空館を会場として「正信偈(しょうしんげ)」を題材とした、仏教・浄土真宗のお話をさせていただきたいと思います。生まれ育った家庭に仏間があり、毎月お仏壇にお坊さんがお参りに来るような環境にある方なら、「きーみょうむーりょうじゅにょらーいー」というフレーズではじまる独特の節回しに、聞き覚えがあると思います。しかしながら現代の日本においてはお仏壇をお参りされ

  • (01)無量光 (02)無辺光

     十二光の最初が[無量光]です。先に「帰命無量寿如来」の語句説明をした際に、無量寿とは「量ることの出来ないいのち」という意味であることをお伝えしました。はかるという言葉は、量るとも、測るとも、計るとも表記されますが、どれも何か大きなところから限定的に「分ける」ことをいいます。山盛りの中から一杯分をすくってその重さを量ったり、点と点の間の長さを物差しで測ったりして、大きな全体から部分に分けて「

  • (03)無碍光 (04)無対光 (05)光炎王光

     正信偈の62句目には「帰命無碍光如来」という一文が出て来ます。これは、1句目の「帰命無量寿如来」と対句の関係を為しています。量り知れないいのち[無量寿]は、碍(さまたげ)の無いひかり[無碍光]とも言い換えられるわけです。永遠無限の量り知れない寿(いのち)は、何ものにも妨げられることなく、どんなことも障害としない光だというのです。私たちの世界では光があれば、影があります。光源から放たれた光が

  • (06)清浄光 (07)歓喜光 (08)智慧光

     仏教では、私たちの心には ①貪欲(とんよく)②愼恚(しんに)③愚痴(ぐち)といわれる「三つの毒(三毒の煩悩)」があると説かれています。それは、①欲しがる心 ②怒る心 ③愚かな心 の三つです。どんなひとでも自分の胸に手を当てて内なる心を見つめてみれば、三毒に日々煩い悩まされているものではないでしょうか。このような心の状態を、仏教では「無明(むみょう)」といいます。真実をありのままに見ることが無く、心が

  • (09)不断光 (10)難思光 (11)無称光

     光吸収率99.995%という、ほとんど真っ黒な、光を反射しない物質が米マサチューセッツ工科大学(MIT)の研究チームによって発見されたといいます。けれども0.005%は光を反射するわけですから、それでは「完全な黒」とは言えません。それは「ほとんど黒」としかいえないものです。有と無や、白と黒のような二項対立する概念と同様に、「光」と「闇」とを二つに分けて考えがちな私たちですが、「光」がつくり出すのはあくま

  • (12)超日月光

     現代社会においては、簡単にオンオフすることのできる人工的な電気があるので、いつでも視界を明るくすることができます。ネオンやヘッドライトやコンビニなどの光が、明るく夜の街を照らしています。けれども文明以前の人類の起源にまでさかのぼってみるなら、松明や行灯、ランプなどの明かりさえ無い時代だったのですから、昼間を照らす「日光」や、夜間を照らす「月光」こそが生活の頼りとなる明かりだったのでしょう。

  • ひかりはいのち いのちはひかり

     「アミターバ(阿弥陀のひかり)」は、永遠無限の光であって、分けられることの無いただ一つの光です。しかしその性質は多様に表現されて、「十二光」の名を以て私たちに明らかにされます。その光は、果てしなく広がり満ち満ちている光(無量光・無辺光)であり、何者にも妨げられることのない光(無碍光・無対光・光炎王光)であり、無明の煩悩を打ち破る光(清浄光・歓喜光・智慧光)であり、思慮分別に越え優れた光(不

  • そして『アミタ-ひかりといのち-』へ

      私たちは、それぞれが主人公としてそこに立つ、「表舞台」に生きています。 そして、そのステージにはスポットライトが当てられていて、舞台の上をいろいろに照らし出しています。    喜劇もあれば悲劇もあって、人間ドラマの明暗が、色とりどりに演じられます。  舞台上の登場人物たちは、それぞれの役割を演じながら、いろいろにその命を輝かせあっています。  &nbs

〒931-8358

富山県富山市東岩瀬町158

浄土真宗本願寺派(西本願寺)

TEL: 076-426-9129

©LINK-AGE ALL RIGHTS RESERVED.