◉道教の影響について

 これまでにも論じてきたように、十七条憲法と冠位十二階には、仏教と儒教の思想が色濃く影響しています。しかしながらまた、中国の民族宗教である「道教」の影響が見られることも、多くの研究者より指摘されています。

 先に引用した佐藤正英氏の著書には、「推古十年(602)に百済から僧が渡来して、暦法や天文・地理の書物や陰陽道、道教の医薬や卜占にかかわる書物を携えていた。」とあり、「渡来した僧は仏法のみならず、儒学や暦法、陰陽道、道教の担い手でもあった。」という記述があります。

 そしてまた、

冠位十二階の創設される1年前の推古10年10月に、百済の僧観勒がやってきて、暦の本・天文地理の本・遁甲方術の本を奉っている。このとき、書生3~4人を選び、暦法・天文遁甲・方術を僧観について学ばせている。暦法・天文・遁甲(占星術)・方術(道教)の根底には五行思想があり、僧観勒により五行思想が教えられたと考える。

という記述もあります。ここに詳しく解説することはしませんが、冠位十二階にみられる「五常」の順序には、「五行思想」との相関性が見出されることも、研究者による一説にあるようです。

 憲法の第二条には「篤く三宝を敬え」とあるように、聖徳太子の思想と仏教との関係性は、直接的に記されています。また「五常」などの用語が条文に散見されるように、儒教との関係性も明らかにあります。しかしながら、仏教の論理性や、儒教の道徳性のみならず、道教の「神秘性」もまた同時に強く感じられるのが、聖徳太子の思想の特徴であると、筆者は受け取っています。

 

◉なぜ17の数なのか?

 十七条憲法に向き合うにおいて、まず筆者が率直に疑問に思ったのは、「なぜ条文の数が17なのか?」ということでした。聖徳太子が官人に向けた条文を作成する際に、ただ意味なく結果的に、十七の数になったということはないはずです。

 インターネットや書籍にその理由を探してみましたが、筆者の疑問に答えるものはなかなか見つかりませんでした。けれどもそんななかで、漸く邂逅したのが、中村元氏の『聖徳太子・地球志向的視点から(東京書籍1990)』にある論説でした。

 中村氏の著作には、以下のような記述があります。

 

この憲法の十七という数についても、学者間に諸説ある。いまその代表的ものとして岡田正之氏の説を紹介すれば、『菅子』に「天道は九をもって制し、地道はハをもって制し、人道は六をもって制す。天をもって父と為し、地をもって母と為し、もって万物を開き、もって一統を総ぶ(すぶ)」とあることから、十七条とは、その九と八との合数をとって天地の道にかない、万物を開き、もって一統を総ぶる意を寓したものと述べている。

また藤田清氏は、「第一条から第九条までを陽の一群とし、第十条から第十七条までを隠の一群として考えるとき、前者は陽にふさわしく積極的に『せよ』と教え、後者は隠らしく『するな』と戒められている」ことを指摘している。(P119)

 

 つまり、1条から9条は[天・男・陽・しなさい]という要素を持つ条文であり、それに対して10条から17条は[地・女・陰・してはいけない]という要素を持つ条文であるといわれるのです。そこから考えられるのは、17条の数には、道教の「陰陽道」の影響がある、という見立てです。十七条憲法には、表立っては明らかにされていないけれども、秘めて隠されている意図やメッセージがあるということでしょうか。

 

 この説を受けて筆者が注目するところは「17は奇数であって、その真ん中に当たるのは9の数である」ということです。

 条文群を構成するにあたって、まずその条数から決めるとするなら、奇数にするか、偶数にするかのどちらかになります。たまたま奇数になった、もしくは偶数になったというのなら考え過ぎということでしょうが、もしも「17」の数字に何かの意味があるのなら、その読み解きの糸口として、ここにこそ注目するべきだと筆者は考えます。

 

 条文が偶数で構成されるものであれば、前半と後半は同数になりますが、十七条憲法は奇数であって、そこから導かれるのは、十七条の真ん中は[第九条]になるということです。

 [第九条]には、まこと〈信〉は人の道〈義〉の根本である。何ごとをなすにあたっても、まごころをもってすべきである。とあります。ここで強調される「信(まごころ)」の重要性を見逃すことはできません。

 

 そこで、仮に基準としての「0」の数を[第九条]に当てはめるなら、「+1」は[第八条] 「-1」は[第十条] 「+2」は[第七条] 「-2」は[第十一条]条 となっていきます。

 この規則性で十七条を配置し直してみると、9条→10条→8条→11条→7条→12条→6条→13条→5条→14条→4条→15条→3条→16条→2条→17条→1条という順番に置き換えられます。

 

 中村氏の記述にある、1~9条[天・男・陽・しなさい]10~17条[地・女・陰・してはいけない]の要素を照らし合わせてみましょう。天と地が、男性原理と女性原理が、そして陽と陰が、バランスをとって交互になって示されるように、読み取ることができると思います。これはちょうど、陰陽の思想に重なるものです。

 

 父性とは「~しなさい」と背中を押すような「力強さ」を有するものであり、母性とは「~してはいけない」と言い聞かせる「優しさ」であり、その心を十七の条文に感じ取るように、読んでみてはどうでしょうか。1条から9条を父の声として、10条から17条を母の声として、そこに込められた親心の願いの声を聞き取るようにして、交互に読み進めてみるとどうでしょうか。

 

 親鸞聖人の『皇太子聖徳奉讃』には、

大慈救世聖徳皇(だいじくぜしょうとくおう) 父のごとくにおはします

大悲救世観世音(だいひくぜかんぜおん) 母のごとくにおはします

救世観音大菩薩 聖徳皇と示現して

多々(父)のごとくすてずして 阿摩(母)のごとくそいたもう

という和讃があります。聖徳太子が認(したた)められた十七条に、永遠の親心からの願いの声を聞き取ったのは、私だけではないようです。

 

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