冠位十二階は、推古朝前代の氏姓制度と異なり、氏ではなく個人に対して与えられるということが特徴で、冠位は一代かぎりで世襲されることがなかったといわれます。

これによって、世間的には生まれが賤しいとされる者を、生まれの良いとされる者の上位に立たせて採用することも、場合によっては可能となったといわれます。そしてまた、旧来の豪族に対して、公共に尽くす「官人」としての意識を持たせる上でも、大きな役割を果たすこととなったといわれています。

この制度において最も低い位置にあるものとして、「大智・小智」の冠位が設定されています。これによって〈徳・仁・礼・信・義・智〉の六徳目における〈智〉の段階に付される意義は、官人共同体における初心者のための「入門」に当たるものであったと推測されます。

朝廷に務める官人として任ぜられるにあたって、旧来の身分秩序に関わらず、まず全ての者が認識しておくべき前提となることが、ここに示されています。〈智〉の徳目より階梯的に「五常」について考察するにあたり、前段の[第九条]を読んでみましょう。

 

【第九条】まこと〈信〉は人の道〈義〉の根本である。何ごとをなすにあたっても、まごころをもってすべきである。善いことも悪いことも、成功するのも失敗するのも、かならずこのまごころがあるかどうかにかかっているのである。人びとがたがいにまごころをもって事にあたったならば、どんなことでも成しとげられないことはない。これに反して人びとにまごころがなければ、あらゆることがらがみな失敗してしまうであろう。 

 

当論の序章で坂本太郎氏の論文を引用して説明したように、儒教においては ①仁 ②義 ③礼 ④智 ⑤信 の順序が一般的であるものが、冠位十二階の階位では ①仁 ②礼 ③信 ④義 ⑤智という順に置き換えられていることについての示唆が、この[第九条]に読み取られます。

まず冒頭には、まこと〈信〉は人の道〈義〉の根本である。という文言があります。原文には「信是義本 每事有信」となっていますが、ここにまず〈信〉と〈義〉という二つの徳目についての関連性が示されていると考えられます。

この一文には、〈信〉と〈義〉を結びつける「本」の一字が見られますが、漢字辞典の『字源』には、

 〖本〗もと。草木の根。草木の一株。物事のはじめ。大切な部分。はじまり。根源。元来。。。

と解説されています。

これに基づいて先の一文を読むなら、〈信〉は〈義〉の根源となる大切なものです というほどの意味になるでしょうか。それはつまり、〈信〉あってこその〈義〉であること。まずはそれを認識しなさい。 そう読み取ることができると思います。

その後に続く、何ごとをなすにあたっても、まごころをもってすべきである。の一文は、何事においても〈信〉すなわち「まごころ」が重要であるということが示されていると考えられます。

古代中国の部首別漢字辞典である『説文解字』には、「信」の字を「人+言」に分けて解説され、信とはすなわち「誠」であり、それは、人の言葉の「まこと」を表すものであって、言葉と言動を一致させることであると解説されているようです。(出典『聖徳太子像の再構築』P122)

二心(ふたごころ)なく誠実に、ただ一心(いっしん)であること。すべての言動に真心が伴っていること。十七条の全文において〈信〉を押さえておくことの肝要が、まず入門に際する第一のこととして、ここに示されていると思われます。

それに続いて、人びとがたがいにまごころをもって事にあたったならば、どんなことでも成しとげられないことはない。と第九条には述べられます。みんなが心をひとつにして、お互いに信頼関係をもって事に当たれば、何事も成し遂げられないことはないというのです。

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