浄土真宗の教えを開かれた親鸞聖人は、有名な歴史的宗教家の中ではかなりの例外で、自身の個人的な事柄についてほとんど書き遺すことのなかった方でした。様々な研究がなされている歴史的重要人物でありながらも、その生涯には未だ謎が多く、その実像は確かなものではないようです。
民間に伝わる伝説的な親鸞聖人といえば、宗教的聖者としての誇張が大きく、あまりにも空想的でリアリティーが感じられないものが多いようです。本願寺が公式とする伝承であっても、開祖の人物像を教条的に固定化しようとするバイアスは避けられません。
明治時代には「親鸞非実在論」といって、聖人は伝説上の人物で実際には存在しなかったとする説まであったそうです。大正時代になると証拠となる書状が西本願寺の宝物庫から発見されて歴史的実在が証明されますが、それでもその人物像が完全に明らかになったわけではありません。やはりその実像は、謎のままです。
親鸞聖人が「和国の教主(日本の国のお釈迦様)」と仰がれた聖徳太子には、いまから約1400年前の人物にも関わらず、日本書紀をはじめとした多くの史料にその記述が残されています。しかしながらこれらの文献はすべて、太子没後100年を過ぎてからまとめられたものであって、その中には史実としての真偽が定かではない、伝説的なものも多く含まれています。
結局のところ聖徳太子の存在や事績に関しても、不明なままに一応の史実とされていることばかりのようで、近代以降の人文科学的な歴史研究の行き着く先として、ここでもやはり「聖徳太子非実在説」が出てきます。
◉記録・歴史・物語・伝説・神話
現代にまで伝えられてきた史料や文化財は、結局のところ限定されています。現存する史料を疑おうと思えば、どこまでも疑うことはできます。一つの極論としての「非実在説」が出てくるというのも、数ある説の中の一説としては、致し方ないことなのかもしれません。
私たちは過去の「記録」から歴史的事実を読み取ろうとしますが、「記録」といっても、それを受け継いできた人々を介して現代にまで伝えられた「物語」に他ならず、それは「伝説」との境があいまいなものです。殊にそれが聖者に関することにもなると、それはむしろ「神話」のようにもなって語り継がれるものなのだと思います。
私たちが当たり前に思っている「聖徳太子」という名前自体が、太子没後に後世の人々によって呼ばれた尊称であって、高い人徳を備えられた人物というイメージが多分に盛られているものです。日本書紀やその他の史料のなかにある呼び名は「厩戸皇子」「豊聡耳皇子」「聖徳皇」「厩戸豊聡八耳命」「上宮王」などと複数あって、どれが実名とは断定できないようです。
聖徳太子なる人が「偉人・聖者」として時代を越えて尊敬を集めてきたことは疑いようのない事実ですが、そのイメージは時代によって変遷していくものでもあるようです。歴史学者の石田公成氏が、「トイ人」というウェブサイトに寄稿された『聖徳太子とは何者か』という文章を、以下に転載させていただきます。
生きているときから「仏に準ずる存在」だった聖徳太子は、死後「観音の化身」「浄土の導き手」といった信仰の対象になっていきます。やがて戦国時代になると、物部守屋を打ち破ったことから、太子に祈れば戦争に勝てるという「戦の神」へ、江戸時代になって世の中が平和になると、四天王寺・法隆寺などをつくった「大工の神様」へと変化します。江戸後期になって国学や儒教がさかんになると、「聖徳太子は仏教などという野蛮な異国の宗教を持ち込んだとんでもないヤツだ」という見方に変わり、これが明治の初めごろまで続きます。
しかし、日本が列強の脅威にさらされ、不平等条約を結ばされると、「列強に伍していくには、西洋の技術や文化を取り入れなければならない」という機運が高まり、太子の見直しが始まります。大陸の文化を取り入れながらも自主的に取捨選択をし、より優れた解釈を打ち出した聖徳太子こそが日本人の理想であるとされたのです。太平洋戦争がはじまると、すべての国民は天皇の元で一致団結、すなわち「和して」戦わなければならないということで、文部省から「和」を説き、天皇への忠誠を強調した「憲法十七条」に関する解説書が全国の学校へと配布されました。国家主義的な聖徳太子像の誕生です。
ところが、終戦を迎えると、「聖徳太子は平和と話し合いの意義を説いた」ことになり、今度は「民主主義の元祖」として奉じられることとなりました。このように、日本の歴史とは、聖徳太子のイメージの変遷史だということもできるでしょう。各時代の人々は、自分たちの理想を聖徳太子に読み込み、シンボルとして利用してきたのです。(https://www.toibito.com/column/humanities/history/259)
これまでの歴史の経過において、聖徳太子という人物像をめぐってさまざまな捉え方をされてきたことが分かります。そしてまた今も現在進行形で、新たな説が生み出されているようです。結局のところ「聖者」とは、それが有する超越的な性質の故に、一つの定説には収まり切らない存在なのでしょう。