これまでにも紹介してきた、古代史研究者・鈴木明子氏による論文「推古朝の合議-大夫合議制の変質と冠位十二階・十七条憲法」(出典『聖徳太子像の再構築(奈良女子大学けいはんな講座)』)によると、推古期には「大夫(マヘツキミ)」と呼ばれる、朝廷内で合議体を形成する政治的地位が存在したといわれます。

 大夫は、冠位十二階を授与された官人のなかでも要職にあたる人々が就いた地位であったと考えられ、鈴木氏の論文には、

大夫は最上位の大小徳冠によって占められており、また、徳冠と仁冠のあいだには重大な階層差を設け、大夫をほかと区別したという。合議に参加した大夫の定員については、10名程度であったと推定される。大夫には、臣、連のカバネを持つ有力豪族が名を連ねた。(P107)

とあります。

 

 五常において、諸徳を包摂する最高の徳目である〈仁〉を冠するのが「大仁・小仁」の階位です。しかしながら、最高位であってもよいはずの〈仁〉の更に上位に、〈徳〉を冠した「大徳・小徳」が置かれているのです。

 鈴木氏の論文によると、大徳・小徳の階位にあるものが「大夫」の役職にも就くこととされ、大仁以下の官人とは、大きな階級的な区別があったといわれます。

 推古朝においては、天皇が合議の場に同席することはなく、大臣がその会議を主宰し、発言するのは大夫の役職にある者だったといわれます。そこでは、合議による全会一致が原則とされており、群臣の見解を一致させなければ、合議は成立しなかったということです。

 大仁より以下の参加は「朝庭で聴合」するにとどまるものだったようですから、合議に参加する役割にある大夫、すなわち大徳・小徳の地位にある者は、要職に相応しい人物が任命されていたということでしょう。

 

 段階的な目標の設定が、組織に属する個人の修養意識を高めるためには、効果的だったのだと思います。そこでは、世間的な道徳を説く儒教の倫理観が、有効だったのだと思います。しかしながら、太子が理想とされる〈徳〉のある議論にまで達するためには、世間的な道徳を一歩踏み越えた、出世間の真理が説かれる「仏教」を習得することが、求められたのだと思います。

 まずは自らの愚かさを省みて、それを改善し賢者となり、そしてやがては聖者となるためには、出世間の教え、すなわち「仏法」の学びが必須だったということです。一般的な儒教の徳目である五常の上に、更に〈徳〉の冠位を設定されているのは、そのことが示されているのだと思います。

 世間的道徳である五常の徳目に併せて、それらを包含しながらも超越する「出世間」の境地、すなわち〈徳〉を加えることで、〈徳・仁・礼・信・義・智〉の六徳目が得られます。そこにまた、大小分別の差をつけることで、大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・大信・小信・大義・小義・大智・小智という、十二の冠位が導き出されます。

 

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