浄土真宗寺院の本堂内陣の中央には必ず、阿弥陀如来の木製仏像か絵像軸、もしくは「南無阿弥陀仏」と書かれた六字の名号軸が安置してあります。そしてその左右には、浄土真宗の開祖である親鸞聖人と、中興の祖といわれる本願寺八代門主・蓮如上人の像が祀られます。またその脇には、インド・中国・日本を代表する七名の高僧方が描かれた掛軸と、それに併せて「聖徳太子」の掛軸を祀ることが、真宗寺院の伝統となっています。
親鸞聖人は聖徳太子を「和国の教主(日本の国のお釈迦さま)」といって讃えられました。太子が日本仏教の始祖であるということは、他宗の開祖にとっても同じであって、天台宗の伝教大師最澄も、真言宗の弘法大師空海も、禅宗の道元禅師も、日蓮宗の日蓮上人も、時宗の一遍上人も、日本の高僧方は皆そろって聖徳太子のことを崇敬されたといわれます。その中でも親鸞聖人は特段に太子への信仰が篤く、自身の記述や伝承のなかに、その深い憶念が遺されています。それは浄土真宗という仏教において、聖徳太子の存在が特別な意味を持つからであると考えられます。
親鸞聖人は「非僧非俗」というあり方を公然と表明された方でした。非僧非俗とは、「僧に非ず(そうにあらず)俗に非ず(ぞくにあらず)」僧侶でもなければ、俗人でもないということです。浄土真宗の特殊性と、聖徳太子につながる共通性が、まさにここにあります。
◉愚禿釋親鸞の名乗り
聖人は九歳で得度され、天台宗の堂僧(比叡山の常行三昧堂につとめる不断念仏衆)として二十年に渡って修行の日々を重ねられました。そして二十九歳のときに法然上人の教えに出遇い、浄土宗に入門されました。つまり十代・二十代、そして三十代半ばまでの聖人は、自他ともに認める「僧侶」だったわけです。けれども聖人三十五歳のときに、浄土宗が朝廷による信仰弾圧に見舞われ、師である法然上人とともに俗名に改名させられて、流罪に処されることとなります。この時より聖人は「愚禿釋親鸞」と名乗られ、「非僧非俗」の姿勢を示されます。
愚禿(ぐとく)とは、愚かな禿人(とくにん)つまりは、頭髪を剃って出家者の姿をしているけれど、仏教で定められた戒律を破り、守ることのない者という意味です。これは「非僧」と同様の意味に当たるもので、朝廷の庇護のもとで鎮護国家を祈るような、公に認められた仏教僧侶ではないということです。
また一方で「禿」の字は「かぶろ・かむろ」とも読み、童女のおかっぱ頭をいうこともあるようです。そしてまた、これに似たザンバラ髪(蓬髪・伸びっぱなしの髪型)の男性のことを、鎌倉時代には「禿(かむろ)」と呼ぶこともあったようです。もしかすると越後での聖人は、頭を丸めた剃髪のお姿ではなかったのかもしれません。当時の京都では、髻をして烏帽子を被るのが男性の一般的な髪型だったといわれますが、流罪に処せられた北国越後での厳しい生活のなかでの聖人は、日常的に身なりを整える余裕などなかったはずではないでしょうか。ザンバラ髪で一般の生活者として人々に交わる聖人のお姿が、北国の地にあったかもしれません。現在の浄土真宗の僧侶にとって有髪であることが当然のようにされているのは、越後時代の聖人の「非僧」のお姿にその原形があるといえます。
自らを「愚禿」と言い放ちながらも、それに続けて聖人は「釋親鸞(しゃくしんらん)」の名乗りをあげられます。「釋」とは釈尊、釈迦牟尼世尊、つまりは仏教を開かれた「お釈迦様」のことです。「釋」という名乗りは、釈尊の教えの流れを汲む正統な仏教徒であることを意味します。これは「非俗」と同様の意味に当たり、つまりは、世間的な価値観を基準として生きる俗人ではないということです。
僧侶らしいのは外見だけで、世間的には悟りすました聖職者のようにしているけれども、その内実はただの俗物でしかないような、そんなものではけしてない。ということです。
鎮護国家を祈るような僧侶ではなく、厳格な修行をする出家者でもない、「破戒僧(戒律を破る僧侶)」と言われても仕方がないような姿でありながらも、心の底から釈尊の説かれた仏法を奉じる「真の仏弟子」として、聖人は堂々と「愚禿釋親鸞」を名乗られました。
妻帯し子を儲けて所帯を構えられた聖人は、配流先の越後の人々と同じく市井の暮らしをしながら、浄土念仏の教えを探求されました。その後、流罪から五年を経て朝廷より赦免がなされますが、帰京されることなく、家族とともに関東へと拠点を移されます。そして四十代・五十代にあたる約二十年の間、聖人は精力的な伝道活動を展開されます。
関東一円に念仏の仲間の輪が広がり、浄土真宗教団の礎となるような活動が盛んになっていきますが、それでも聖人は、いわゆる「寺院」を建立されようとしませんでした。 少し他の民家と区別し棟をあげて作られた道場や、路傍に建てられた辻堂を会場として、一般の民衆に向けて法を説かれたといいます。辻堂のなかには聖徳太子が祀られた「太子堂」があったことも、後世の伝記『親鸞聖人正明伝』には伝えられています。
聖人は、六十代のはじめに関東から京都に移られて、ご兄弟が院主となる寺院などに間借りをしながら、晩年は執筆活動に専念されます。そして、生涯ご自身の寺院を持つことなく、九十歳で往生の素懐を遂げられました。
坊主という言葉は「坊(寺院)の主(あるじ)」という意味ですが、そうした意味においては、親鸞聖人は「お坊さん」ではありませんでした。生涯を非僧非俗の立場を真摯に貫かれた「在家仏教徒」だったのです。