Ⅰ リンクエイジ・いのちのつながり
ひとがこの世に生まれてくるには、必ず2人のひとが必要です。それは1人の男性と1人の女性と言った方が良いかもしれません。どんなひとにも、この世に生まれるための無くてはならないご縁として、必ず2人の産みの親がいます。私という1人には、父母という2人のひとと、祖父母という4人のひとが必ずいますが、4人の祖父母にも同じように両親がいることを思うと、私には8人の曾祖父母(そうそふぼ)がいるということになり
身近な方を亡くされたことをご縁に
新たな生き方が開かれてくる
そういうことも 人生にはあります
ひとがこの世に生まれてくるには、必ず2人のひとが必要です。それは1人の男性と1人の女性と言った方が良いかもしれません。どんなひとにも、この世に生まれるための無くてはならないご縁として、必ず2人の産みの親がいます。私という1人には、父母という2人のひとと、祖父母という4人のひとが必ずいますが、4人の祖父母にも同じように両親がいることを思うと、私には8人の曾祖父母(そうそふぼ)がいるということになり
心がうきうきとして楽しくて嬉しくて、何かに夢中になっているようなときに、人間とは何か? 人生とは何か? なんて考えることは、まずありません。苦しみや悩みを自分の内に抱え込んで、どうしようもなく辛くて悲しくてやりきれなくなったときに、それを「縁」として、はじめて仏教に出遇うのだと思います。親しい人との離別は、誰もがいつかは経験しなければいけない出来事です。そんなときには悲しみの感情だけでなく様々な思
私がまだ小さな子供だった昭和の頃には、今よりもずっとお寺が地域の生活に密着してあって、お寺参りを日常的な習慣にしている方々がまだ多くいらっしゃいました。今ほど長命の時代ではなかったので、若くしてお父様やお母様、お子様などを亡くされた方々が、死別をご縁としてお寺参りを始められるということも少なくなかったようです。まだ戦後2、30年しか経っていない頃だったわけですから、戦争でお身内を亡くされた方々も
他者を思い遣る気持ち、慈悲の心は、誰にでもあるはずです。けれども私たちの心は自分本位で、自己中心的で、誰かに何かをしてあげるといっても、見返りを期待するような損得勘定が働いたりします。ひとのことを心配したり手助けしたいと思ったりても、いつでもどこでもだれとでもというわけではありません。自分にとって好ましく感じる人でなければ、自分からその手を差し伸べようとは、しないことだってあるように思います。深
夭折された詩人・金子みすずさんの詩に「みんなちがってみんないい」という言葉があります。みんな違うということは、何も取り立てて道徳的であったり倫理的であったりするわけではありません。元々に人は皆それぞれに異なって存在しているのですから、私たちはただその「多様性」の事実に気付き、それを肯定しなければいけないだけなはずなのです。みんなちがってみんないいとは、誰もがみんな「ひとり」であって、その集
私が慶集寺に入って僧侶としての生活を始めた29歳のときからおおよそ四半世紀が過ぎ、これまでずっと一緒にお参りしてきたご縁の方々とのお別れが、ずいぶん多くなりました。毎月ご自宅に伺って、仏壇の阿弥陀さまに向かって共にお参りをし、いろんなお話をさせていただいてきた方々との、最期のお別れです。若かった頃は、人が歳をとって亡くなるのは仕方がないことだと割り切って考えることができたような気がします。けれど
浄土真宗の門信徒には、ご本尊として仰ぐ阿弥陀仏を、親しみを込めて「親さま」と呼ぶ習慣があります。浄土真宗の先人方は、人と人とを区別することなく、差別することなく、依枯贔屓することなく、等しく見守る仏の心を「真実の親心」と表現されました。私はこのことを「根源的な生命エネルギー」と捉えています。生きとし生けるすべてのものが生じるための基盤としてある、すべての生命の根源を、先人方は「親さま」と自然に表
若い頃にはそれほど気にすることもなく、どうにかなるだろうと思ってその日暮らしにしてきたことが、年齢を重ねると現実の問題として身に迫ってくるもののようです。私たちが抱える現実的な問題というと、大体は3つのことになります。一つには、お金の問題。二つには、健康の問題。そして三つ目には、人間関係の問題です。こうした問題に直面すると、藁をもすがるような思いで「神だのみ仏だのみ」と手を合わせることがあるか