『日本大百科全書』の「儒教」の解説には、〈礼〉の徳目について、

「礼」とは本来は礼儀作法の形式であって、社会的な秩序を維持し、また対人関係を円滑にするための規範慣習である。したがって、礼の形式を学ぶことは、儒家にとってたいせつな教科であるが、一方内面的には礼を当然のこととして実行する、謙虚な心情を養うことが必要とされた。

と記されています。

 〈礼〉の徳目には、外的にあらわれる「作法」の意味と、内的にあらわれる「節度」の意味が、併せてあるようです。具体的な所作(かたち)の統一だけではなく、その根底にある精神(こころ)の共有化があってはじめて、共同体における〈礼〉は成立するということでしょう。

 この章のテーマである〈礼〉とは、目には見えない「こころ」を表す「かたち」であると同時に、目に見える「かたち」があることで定められる「こころ」を示すと言えるでしょう。

 まず前段にあたる[第五条]では、官人に対して、自己中心的な欲望を抑制し、公共のために尽くすよう、自分本位なあり方をしないように戒められています。

 

第五条】役人たちは飲み食いの貪りをやめ、物質的な欲をすてて、人民の訴訟を明白に裁かなければならない。人民のなす訴えは、一日に千軒にも及ぶほど多くあるものである。一日でさえそうであるのに、まして一年なり二年なりと、年を重ねてゆくならば、その数は測り知れないほど多くなる。このごろのありさまを見ると、訴訟を取り扱う役人たちは私利私欲を図るのがあたりまえとなって、賄賂を取って当事者の言い分をきいて、裁きをつけてしまう。だから財産のある人の訴えは、石を水の中に入れるようにたやすく目的を達成し、反対に貧乏な人の訴えは、水を石に投げかけるように、とても聴き入れられない。こういうわけであるから、貧乏人は何をたよりにしてよいのか、さっぱりわからなくなってしまう。こんなことでは、君に使える官たる者の道が欠けてくるのである。 

 

 何事にも節度をもって公正であることが大事であることは、誰でも頭では分かっているはずです。けれども、そうは思っていても、ついついやってしまうことが、人にはあります。身勝手にひらきなおってしまうことさえあります。

 公共の仕事に携わる限り、自分勝手に気分次第でやりたい放題というのでは、みんなにとっての問題が生じることとなります。社会的に重要な役割に就く人に対して、一般の人々にも増して強く、欲望に対する自己抑制が求められるのはそのためでしょう。

 不祥事をお詫びしますといって最敬礼のお辞儀をするような場面を、報道などでよく目にします。けれどもそれが上辺だけを取り繕ったような、かたちだけのお詫びであるから、また同じような場面を見ることになるのでしょうか。

 官人としてまず認識しておくべきことが説かれた〈智〉の章の前段[第九条]には、何ごとをなすにあたっても、まごころをもってすべきである と説かれていました。心からの礼でなければ、人の心に伝わるものにはならないと、心から思わなければいけません。

 

 自分の「こころ」だからといって、思い通りに自己表現したり、自己制御できたりするわけではないでしょう。だからこそ古くから定められている「かたち」を身につけておくことが、大事になるのだと思います。

 ある「かたち」に従うことで、自然と「こころ」が定まるということもあります。真心を根本とすることは当然であっても、何らかの「かたち」がないと「こころ」は定まらないものなのだと思います。

 ルールやマナーといった慣例的な形式を「かたち」として身に付けておくことは、社会生活を営むにおいて、必要なことだと思います。けれどもそれが「かたち」だけのものにはならないように、目には見えない「こころ」を整えておくことこそが、大事なのだと思います。

 

 次の中段[第十四条]では、自己中心的な価値基準で他者と比較して、自分の「こころ」を煩い悩ますことのないように戒められます。

 

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