推古天皇が日本史上最初の女性天皇として即位され、推古二年(594年)には『仏法興隆の詔(みことのり)』が発布されました。これによって、諸部族間の対立を緩和し、民衆の生活の倫理性を高めるために、仏教を政治の基調として置くという、推古朝の方向性が明確化されます。

 そしてその後、推古十一年(603年)には「冠位十二階」が制定され、続く翌年の推古十二年(604年)には「十七条憲法」が制定されました。これらの施策によって、朝廷を規律的に組織化することで、天皇を中心とした中央集権国家の建設が推進されます。

 推古十四年(606年)には、聖徳太子が推古天皇に「勝鬘経」を講義されたことが『日本書紀』に記されています。勝鬘経は、在家の女性信者が釈尊の承諾を得ながら仏教の深淵なる法を説くという経典です。

 このような特徴のある内容の仏典を、女性天皇に向けて講義されたという記事は、何を意味するものなのでしょうか。天皇に対しては、仏法の護持者であることの自覚を促し、臣民に向けては、天皇の仏教興隆の意思を広く知らしめる、そうした意図があったのではないでしょうか。

 

 「敬礼(けいれい)」とは、下座にある人が上座にある人に対して敬意を表し、礼することをいいます。これを仏教語では「きょうらい」と読んで、神仏を敬い、礼拝することの意味になります。

 朝廷における儀式空間を想像するなら、そこでの席次はもちろん、十二の冠位に従うものだったはずです。そしてその最上座には、推古天皇が鎮座されていたはずです。冠位に就いた官人たちは、天皇に対して敬いを表し、下座から上座に向かって礼拝されたことでしょう。

 

 

 有名な「玉虫厨子(たまむしのずし)」は、日本に遺されている最古の仏壇だといわれています。このような「厨子」は、果たしてどのような空間に安置されていたのでしょうか。

 

 

 「玉虫厨子」がどのようにして礼拝されていたのか。今に遺される史料だけでは、それを知る由もありません。しかしながら、礼法を重んじることが命じられていた推古朝における公式の儀礼空間に、参列者全員が一同に向かい対する方向や、共に仰ぐ対象が、あったはずではないでしょうか。

 「至心敬礼(ししんきょうらい)」という言葉があります。心より神仏を敬い念じて、その名を唱えることをいいます。仏像に向かって合掌礼拝し、「南無仏」と唱える姿が、推古朝の儀礼空間にあったのではないかと、筆者は想像するのです。

 

 

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