第十四条】もろもろの官吏は、他人を嫉妬してはならない。自分が他人を嫉めば、他人もまた自分を嫉む。そうして嫉妬の憂いは際限のないものである。だから、他人の智識が自分よりもすぐれているとそれを悦ばないし、また他人の才能が自分よりも優っていると、それを嫉み妬むものである。このゆえに、五百年をへだてて賢人が世に出ても、また千年たってから聖人が世に現れても、それを斥けるならば、ついに賢人・聖人を得ることはむずかしいであろう。もしも賢人・聖人を得ることができないならば、どうして国を治めることができようか。 

 

 冠位十二階は、旧来からの氏姓制度に見られる固定的な権威を解体して、出自を問わず能力がある者には、それに応じた役職を与えた制度であるといわれています。そしてポストの上下の関係性を、着衣の色や冠位の名称に表して、目に見える形にして表した制度であるといわれています。

 複数の人々によって組織立った行動をしなければいけない現場では、人事における上下関係は、どうしても必要です。けれども人には自尊心があって、優越感や劣等感のなかで、心を揺れ動かすものでもあります。ここでいわれる「嫉妬心」は、自分の胸に手を当ててみれば、誰もが思い当たる節があるのではないでしょうか。

 冠位十二階が、従来の慣例を覆すような革新的な制度であったからこそ、そこでの人事は必ずしもスムースなものではなかったはずです。人間の世界である限り、人と人との複雑な関係性のなかで、ポストの競り合いや派閥争いのような問題は必ず起きるものだと思います。

 

 この条文には「賢人」と「聖人」という、二つの概念が示されています。それらがそれぞれに、五百年をへだてて世に出るものと千年たって世に出るものとに区別されていることから察するに、賢人よりも聖人の方が、稀有な存在としてあることが言われているのでしょう。賢人の対義語が「愚人」であることを思うと、愚人よりも賢人の方が上位にあり、賢人よりも聖人の方が更に上位にあることが、ここに示されていると分かります。

 こうした関係性のなかで、賢人と愚人を分ける基準が「嫉妬心」にあることが示されているのです。嫉妬心とはすなわち、自己中心的な「執着心」のことです。自分本位な思い込みの見方で、自分と他者を比較することは愚かなことだといわれているのです。意味のない比較をして自分の心を乱すのではなく、切磋琢磨のなかでお互いに成長しようとするのが、賢明だということです。

 各々の役割に意義を見出し、皆に分け隔てなく関わり合い、全体と未来を見通して常に公平であるのが、賢人の上に立つべき聖人、世の中に稀に現れる「聖なる人」ということでしょう。

 

 次の後段[第四条]では、民を治めて、政を治めていくためには、まずは自らの「こころ」を修めて、定められた「かたち」を身に付けることが重要であると説かれます。

 

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