古代にもさまざまな人の営みがあったはずですが、それらのほとんどすべてが形を失い、もはや消えて無くなっています。しかしながら聖徳太子にまつわる史料や文化財は、1400年を経た今もなお、その「かたち」を留めています。

 太子の伝承は今にも語り継がれ、それを裏付ける記録や物品が、奇跡的な保存状態で残されています。このような奇跡は、これらの史料や文化財が、決して失われてはいけないものとして、「こころ」を込めて扱われてきたからこそ、あり得ることなのだと思います。

 

 

 聖徳太子に縁(ゆかり)の品や、それと共に伝えられる記録や伝承に向き合い、それらを受け継いできた人々を貴び敬いたいと思います。そして、心を以て伝えられてきたその心を受け継ぎ、その根源となる「聖徳太子」の心を読み取り、その人物像をイメージしたいと思います。

 今に伝わる「かたち」から、そこに込められた「こころ」を、読み解きたいと思います。

 

 

 どんなに客観的に、学術的に歴史を見ようとしても、それが人間という不可思議なる存在を対象とするものであり、それを考察する自分自身が不可思議なる人間存在であるかぎり、一切の恣意的な見方を断じて、それを論じることは不可能です。

 自分の立場や理想や背景を投影して、自分なりに解釈することでしか、私たちは歴史に向き合えないのだと思います。

 当代の定説であっても「真理」には程遠く、どんな説にも「一理」はあるはずです。数ある説のなかの一説として、私の中に生きる聖徳太子を、これより論じさせていただきます。自らの凡夫性を自覚しながらも、自分にしかない想像力を働かせて、聖徳太子を論じてみたいと思います。

 

 

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