① なぜ智義信礼仁徳の順なのか?

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 冒頭にも述べましたが、令和3年は聖徳太子1400回大遠忌となる記念の年でした。この年を締めくくる年末の12月に、刊行前に予約注文していた『聖徳太子像の再構築(奈良女子大学けいはんな講座)』という論文集が、自坊の郵便受けに届きました。

 その中の一稿として上梓されていた古代史家・鈴木明子氏による論文「推古朝の合議-大夫合議制の変質と冠位十二階・十七条憲法」は、それまで筆者が取り組んできた考察に、一筋の光が差し込まれたような、大きなヒントを与えてくださるものでした。

 

 鈴木氏の論文によると、

大化前代には、「大夫」という一定の政治的地位が存在し、合議体を形成していたとされる。「大夫」はマヘツキミと訓まれ、「群臣」「群卿」など多様に表記された。(P103)

大夫は最上位の大小徳冠によって占められており、また、徳冠と仁冠のあいだには重大な階層差を設け、大夫をほかと区別したという。合議に参加した大夫の定員については、10名程度であったと推定される。大夫には、臣、連のカバネを持つ有力豪族が名を連ねた。(P107)

と解説され、ここにある「大夫合議制」は、冠位十二階と密接に関連した制度であったと述べられているのです。

 鈴木氏はこの論文に、朝廷の政策決定の現場にあったとされる、群臣の見解を一致させなければいけないという原則、すなわち「合議による全会一致の原則」は、聖徳太子在世の推古朝において成立したものであるという説を立てられています。

 そしてまた、朝廷に仕える全ての臣下による合議は、冠位十二階の最上位である「徳冠(=大夫)」の合意をもって代表されたと述べられています。そのうえで、

『日本書紀』によれば、冠位十二階は推古天皇十一年(603)十二月に制定、翌十二年元日に施行された。同年四月には、十七条憲法が制定されている。官人として登用されるべき個人に位階を授ける冠位十二階と、官人としてのあり方を定める十七条憲法は、相次いで制定・施行されていることからも、不可分の関係に置かれた一体の法として考えることができる。(中略)冠位十二階と密接に関係する十七条憲法にも、新たな合議制の理念が示されていたとみられる。(P118)

と記されています。

 冠位十二階と十七条憲法が、相互に補完する関係性をもって制定されたものではないかという推論は、前述の坂本太郎説を受けて、筆者も同様に考察を進めていたものでした。そこに与えられた鈴木説との邂逅は、筆者の考察に更なる展開を齎すものだったのでした。

 

 

 これより、鈴木氏の論考を受けつつ、考察を進めた自説を論じるにあたって、十七条のちょうど真ん中の項目となる[第九条]を主軸とし、その前後を交互に読み進めていく順序で、9条→10条→8条→11条→7条→12条→6条→13条→5条→14条→4条→15条→3条→16条→2条→17条→1条という流れで、条文を読み進めてまいります。

 そしてこの順に従いながら、十七条を六つのパート、①[9・10条]②[8・11・7条]③[12・6・13条]④[5・14・4条]⑤[15・3・16条]⑥[2・17・1条]に分類した上で、冠位十二階にみられる六徳目〈智・義・信・礼・仁・徳〉に当てはめて、それぞれを章立てすることと致します。

 

 このような一見変則的にも見える読み方を、奇異なもののように感じられる向きもあるかもしれません。しかしながら、こうした規則性に沿って読み進めることによって、条文読解の流れがよくなり、十七条の全体像が把握しやすくなり、結果的には『十七条憲法』と『冠位十二階』の関連性が鮮明に浮かび上がってくるという利点が起きることに、注目していただきたいと思います。

 こうした解読法を取ることの根拠や裏付けについては、巻末の[補稿]に詳しく解説してありますので、全文を読了していただくことで、自説の全体像をお伝えすることができると思います。

 

 

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