⑦ 仁の世界観・徳の宇宙観

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◉十二階の手引きとしての十七条

 歴史家の坂本太郎氏は、その著書『人物叢書・聖徳太子』に、仁→義→礼→智→信という順序で一般に説かれる儒教の五常観を破り、冠位十二階においては〈徳・仁・礼・信・義・智〉の順列にして階位を定められたところにこそ、聖徳太子の独自の思想が認められると述べられています。

 

その明白なる一例は信の順である。五常の生成より言って最も新参である信の徳は、当然その順に於いて最後であった。然るに我が冠位に於いては義智を越えて仁礼に次ぎ、正に五常の中堅を獲得した。それは憲法の第九条に「信是義本(信はこれ義の本なり)云々」とあるに通ずる太子の理想の表示に他なるまい。

礼もまた同様に考えられる。由来仁義の語は孟子に依って唱導せられてこの方、その結合を極めて強固にし、多くの場合相伴ってあらわれる。太子がこれを打ち破ってその間に礼を挿入した意気は、憲法の第四条に「群郷百寮以礼為本(礼をもって本とせよ)云々」とあると相映じて発すべきである。

 

 ここに坂本氏は、十七条憲法[第九条]にある 信はこれ義の本なり。事ごとに信あるべし。という条文と、[第四条]にある 礼をもって本とせよ。それ民を治むる本はかならず礼にあり。という条文に注目して、十七条憲法と十二階の冠位との関連性について論じられています。

 大陸から伝来した儒教の知識にそのまま倣うのであれば、確かに〈義〉の徳目は〈礼〉や〈信〉の上に置かれて然るべきもののはずです。しかしながら冠位十二階にみられる順序では、それを意図的に変更されて、仁→礼→信→義→智という順列に置き換えられています。このことを暗示する内容が、[第九条]と[第四条]に読み取れると、坂本氏は主張されているのです。

 

  [第四条]の 礼をもって本とせよ。という条文と、[第九条]の 信はこれ義の本なり。という二つの条文には「本」の一字が共通して見られます。この文字の意味を『字源』に尋ねると、〖本〗もと。草木の根。草木の一株。物事のはじめ。大切な部分。はじまり。根源。元来。書物。。。と解説されています。

 《木》を根元から支えるのが《根》であり、そしてまた《枝》の根元には《幹》があるように、〈仁〉は〈礼〉を根本として、そしてまた〈義〉は〈信〉を根本としてある。そのように読み取ることもできないでしょうか。

 

 《葉と枝と幹と根》が組み合わさって出来ているのが、一本の《木》の姿です。〈智と義と信と礼〉が全て備わってあるのが〈仁〉の徳です。このように、智→義→信→礼→仁の順に読まれることによって、一本の《木》の全体像を、細部から順に把握していけるように感じられます。

 十七条憲法をこのようにして読み解くことで、冠位十二階の大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・大信・小信・大義・小義・大智・小智という冠位が、下位の小智から順に、上位の大徳を目指して、段階的な人格の成長とともに授与されるものであったように読み取られます。

 

 種が芽を出し、双葉を広げ、茎を伸ばして、やがて幹になり、枝を広げ、そして葉をつけ、やがては花を開かせるように、人間の成長を促すようなガイダンスの機能が『十七条憲法』にはあるのではないでしょうか。

 憲法の[第七条]には、世の中には、生まれながらに聡明な者は少ない。よく道理に心がけるならば、聖者のようになる。と記されています。

 人間であるかぎり、自己中心性という「愚かな性質」のあることは、生来的なものであって、仕方がないことです。けれども十七条憲法に説かれることに心掛けて、それを努めていくなら、少しづつでも「賢さ」を身につけられるはずだと、太子が背中を押して、励ましてくださっているようにも感じられます。

 

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