第十六条】人民を使役するには時期を選べというのは、古来の良いしきたりである。ゆえに冬の月には閑暇があるから、人民を公務に使うべきである。しかし春から秋にいたる間は農繁期であるから、人民を公務に使ってはならない。農耕しなければ食することができないし、養蚕しなければ衣服を着ることができないではないか。 

 

 先にも説明したように「私」という文字は、稲を意味する「禾編(のぎへん)」に、腕を回して抱え込もうとする意味を表す「ム」が合わさって成るものです。自分で作った稲は自分のものだと、他人には渡すまいとする様子を表すのが、「私」という漢字の成り立ちだということです。

 人々が安定して食糧を手に入れ、社会を維持していくためには、常日頃から食糧を備蓄・確保する体制を整えておく必要があります。そしてまた、租税の賦課を通じて、富む者から貧しい者への再分配を行うことも、国家の機能としてあったでしょう。自分の食糧を「公」のために開くということは、すべての人民に同じく求められるものだったはずです。

 

 この後段[第十六条]では、人民を国家のために使役させる際の注意点が述べられています。公の強制力を発動して人民に従事させるときにも、一人一人の生活を思い遣って配慮することがなければ、その関係性は成り立たなくなります。国のために人がいるわけではなく、人が幸せに生きていくために国があるのだという大前提を、太子は述べられているようにも思われます。

 組織のために人がいるのではなく、人のために組織があるのであって、みんなが幸せに生きていくために、社会は協働して営まれるものであるべきです。多様なあり方を認めて、人それぞれの役割を務めて、相互に依存し、相互に関係する。自然の道理に適った相依相関の社会を、聖徳太子は理想とされたのだと思います。

 

 

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