第三条】天皇の詔を承ったときには、かならずそれを謹んで受けよ。君は天のようなものであり、臣民たちは地のようなものである。天は覆い、地は載せる。そのように分の守りがあるから、春・夏・秋・冬の四季が順調に移り行き、万物がそれぞれに発展するのである。もしも地が天を覆うようなことがあれば、破壊が起こるだけである。こういうわけだから、君が命ずれば臣民はそれを承って実行し、上の人が行うことに下の人びとが追随するのである。だから天皇の詔を承ったならば、かならず謹んで奉ぜよ。もしも謹んで奉じないならば、おのずから事は失敗してしまうであろう。 

 

 『広辞苑』によると、「公(おおやけ)」の字は「大宅」とも表記されるようです。「宅(やけ)」は「家」と同義なので、公は「大きな家」という意味になるようです。天皇を仰いで人々がまとめられている「一つの大きな家」というイメージが、「公」という言葉に込められているようです。

 君は天のようなものであり、臣民たちは地のようなものである。の文は一見、頂点に「天」があり、その下に「臣」があり、最底部に「民」があるような、ピラミッド型の階級社会を連想してしまいそうになります。しかしながらここに言われているのは、そのような「ヒエラルキー」ではありません。天皇を「天」に仰ぎ、臣下が一同に「地」となって、人民をその上に載せて守るような、調和的な世界観がここに描かれているです。

 天と地が一つにつながりあって、そこでの自然の巡りのなかに万物があるような、上下が一つに和合するような平和な世界のイメージです。社会における各自の役割分担が、それぞれに適切なものであることの理想が、ここに願われています。

 

 2021年に上梓された鈴木明子氏による論文「推古朝の合議-大夫合議制の変質と冠位十二階・十七条憲法」(出典『聖徳太子像の再構築(奈良女子大学けいはんな講座)』)のなかには、推古期における「大夫合議制」についての論考がなされています。

 それによると、

大化前代には、「大夫」という一定の政治的地位が存在し、合議体を形成していたとされる。「大夫」はマヘツキミと訓まれ、「群臣」「群卿」など多様に表記された。(P103)

とあり、推古朝の政治においては「合議」が重要視されていたことが論じられています。

 鈴木氏の論文によると、推古朝における政治決定の現場においては、合議による全会一致が原則とされ、群臣の見解を一致させなければ、合議は成立しなかったということです。合議の場に天皇は参加せず、大臣がそれを主宰し、発言するのは臣(おみ)や連(むらじ)の姓(かばね)を有する豪族出身者だったといわれます。臣や連の地位にある者が、主に冠位十二階における「大徳・小徳」の階位に就いて討議に参加し、「大仁・小仁」以下の官人は「朝庭で聴合」するという会議の形式が取られていたそうです。

 徳冠を授けられた大夫による合議が、冠位を授与された全延臣による合議とされ、大臣がそれを一本化して天皇に上奏するということです。合議の場に天皇が同席することはなく、天皇は合議機関からは超越した位置にあったけれども、最終的な「裁定権」を有していたといわれます。そしてまた大臣の地位にある者は、合議体に入らない別格の存在であって、合議の統括者として天皇と群臣の間を媒介する役割に徹していたといわれます。

 推古天皇は合議への関与を、大臣である蘇我馬子を媒介とした、間接的なものに止めていたということでしょうか。そしてまた蘇我馬子は、冠位十二階を越えた地位にあって特別な役割を果たしていたということでしょうか。

 合議によって取り決められたことが、大臣を介して天皇に報告され、その内容が「詔(みことのり)」として発布されたという流れだったようです。詔とは天皇のお言葉、あるいはそれを書き記したもので、「詔勅(しょうちょく)」ともいわれるものです。天皇の詔を承ったならば、かならず謹んで奉ぜよ。とあるように、天皇から下された命令は、絶対的な強制力があったようです。

 

 こうした政のあり方は、人々が一つに連動して各々の役割を果たす「大きな家」として構想されたものだと思われますが、ここでの世界観は、決して「全体主義」のようなものではありません。

 人間の世界は多様であり、そこには必ず各々の社会的な役割があるはずで、組織的な約束事に基づく、仕事の分担があるものです。そこに地位的な上下関係が生じることは致し方ありません。しかしながら「平等」ではないからこそ、そこでの「公平性」は重視されなければいけません。

 

 推古朝においては、冠位十二階に基づく組織的な役割が決められており、大臣や天皇の役割も、公の事として定められていたということです。大夫による合議によって政の方向性を統一し、そこでの合議事項を大臣が天皇に奏上して、そこで裁定されたことが「詔」として臣民に下されます。

 ちょうど、海の水が蒸気して空に昇り、やがて雲から雨が降るような、自然界にみられる循環のイメージでしょうか。こうした政治のあり方は、天皇の絶対君主制というよりもむしろ、人々が連帯して協働する「共和制」に近いもののようです。

 多勢が心を一つにして協力するためには、みんなが同じ心で仰ぎ敬うことのできる「象徴的な存在」が必要となります。一個人としての意見を持たずに、すべてに対して分け隔て無くある、絶対的超越を象徴する存在。それが推古天皇の存在する役割だったのではないでしょうか。

 推古天皇が即位され、その翌年には『仏法興隆の詔(みことのり)』が発布されています。このことから推察されるのは、推古朝では仏教が尊重された政治がなされており、そこでの施策は「仏法」に基づくものであったということです。大夫による合議には、仏の理法に適うものであることが求められていたはずです。天皇からの「詔」は、仏の法を代弁するものとして下されていたのではないでしょうか。

 前述の鈴木氏の説によると、推古朝の合議は全員一致が原則だったといわれます。しかしながら現実的なこととして、立場や考え方や価値観の異なる人々が、全会一致で合議することは容易ではないはずです。だからこそ、自分の考えと異なるものであったとしても、自分の立場に拘るのではなく、理法に適うものであるように、自らの考えを調整していくように求められたのではないでしょうか。そして、大臣によって奏上された合議内容が、一度天皇によって裁定され、詔として発布されたら、必ず謹んで奉じることが求められたのだと思います。

 

 ワンマンの有力者からのトップダウンの命令が、不公平で差別的なものに感じられたら、大勢から反発されることにもなるでしょう。人を人とも思わないような振る舞いであっては、人心を一つにするような政治はできません。一人ひとりがかけがえのない人間であることを思い遣る心がなければ、〈仁〉の政治とは言えません。

 天皇と臣下と人民の関係は、利己的な欲望を抑えて礼を重んじ、万人に対して慈しみ愛すること、すなわち〈仁〉の徳によって成り立つものであるはずです。

 そのことが、後段の[第十六条]に述べられます。

 

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