【第十一条】下役の者に功績があったか、過失があったかを明らかに観察して、賞も罰もかならず正当であるようにせよ。ところが、このごろでは、功績のある者に賞を与えず、罪のない者を罰することがある。国の政務をつかさどるもろもろの官吏は、賞罰を明らかにして、まちがいのないようにしなければならない。

 

 どんな人でも、依怙贔屓(えこひいき)がいけないということは、当然のことだと思っているはずです。けれども案外無意識に、自分の好き嫌いや都合の良し悪しで、自分本位な判断をしてしまうことがあるように思います。

 他者に対して賞罰や功罪の判断を下すという役割は、大変責任の重いことです。現代を生きる私たちは「法治主義」の社会にあって、法令を基準として賞罰や功罪を判断することが制度化されてますが、古代においては、徳のある統治者の判断によってそれがなされるという「徳治主義」の社会だったといわれます。

 儒教とは「修己治人(しゅうこちじん)」自己を修めて衆人を治めるための教えだといわれます。徳治主義においては、民衆を統治する者にはそれに相応しい人徳が求められます。人の上に立って指示をするような立場にある人には、道徳的修養を積むことが必須だったということです。

 儒教でいう政治とは、法律や刑罰で人民を管理することではなく、道徳によって人民をよい方向へと導くためのものであり、それにはまず、為政者の側から自己の修練に勤めることが求められたのです。

 法治的な政治が、法律や刑罰といった外部からの他律によって為されるものであるのに対して、徳治的な政治とは、倫理道徳という内面からの自律によるものであることが求められます。そこではまず、統治者側の修養が先んじてあるべきものであり、そこから次第に、民衆への教化が拡がっていくとされていたのでしょう。

 多くの経験を積み重ねた賢明な人格者でなければ、他者を評価し判断することはできないという、厳しい戒めです。次の後段[第七条]では、自らに与えられた役割を勤めることによって、自分自身を少しずつでも成長させていくことが、勧められています。

頁. 1 2 3

〒931-8358

富山県富山市東岩瀬町158

浄土真宗本願寺派(西本願寺)

TEL: 076-426-9129

©LINK-AGE ALL RIGHTS RESERVED.