仏さまの心を「大慈悲心」といいます。人々の喜びを自らの喜びのように慈しみ、人々の苦しみを自らの苦しみのように悲しむ。その心に私たちはつつみ込まれ、抱きかかえられています。

円満なる大慈悲心から発せられた根源的な願いの力を「本願力」といいます。そのエネルギーが、私たち一人ひとりに差し向けられています。私たちは、その力に願われ、生かされているのです。

その心と力を、南無阿弥陀仏のお念仏の声としてそのまま受けとるのが、浄土真宗の教えです。

 

人それぞれに、両親や恩師、親友や、親愛なる人がいるはずです。そうした方々の中には、もう会えなくなってしまった人もいるでしょう。けれどもその人は、真実の願いそのものとなって、いつでもどこでも私のことを、見守ってくださっているのだと思います。そう私は信じています。

仏と成って、仏とひとつと成って、真実の親さまとして成仏されたその人は、南無阿弥陀仏の声となって、いまここの私に寄り添ってくださいます。その親心を、南無阿弥陀仏の声に、よくよく聞き取ることが、大事なのだと思います。

 

どんな人でも救われ得る教えが、浄土真宗の他力念仏の教えです。深い思い遣りの心で、私のような「餓鬼」までをも救おうと、真実の親心で説きひろめられたのが、浄土真宗の宗祖・親鸞聖人のお念仏の教えです。

親鸞さまの「しん」という字は「親(おや)」と書きます。まさに人間の心の真実に迫り、近づき、親しみ、一人ひとりを願われた、その方の名に相応しいお名前だと思います。

 

浄土真宗のお念仏は、報恩感謝のお念仏だと言われます。願われて、生かされて、いまここにあることのご恩に報いて、素直に感謝の心をあらわすお念仏の声です。

私にとっての恩に報いるべき人は、親鸞聖人はもちろんとして、お念仏の声を私にまでに届けてくださった、すべてのご縁の先人方です。

必ずひとつに受け入れてくれる、大きな心があるというのは、とても大きな安心です。

 

私に出来ることは「南無阿弥陀仏」のお念仏をいただきながら、ちょっとずつでもいいから自分の我執をほどいていくこと、凝り固まった自分の心を、解きほぐしていくことでしょうか。

日々の子育てや世間での人間関係に、いつも心迷わせている私ですが、少しづつでも心の大きな人になることが、大人になっていくということなのでしょう。

 

自分がいただいてきたご縁をありのままに受け入れて、心から「おかげさまで」「ありがとう」。素直に「ごめんなさい」。そう言えるようになれたらと思います。

自分もやがては死ぬわけですから、息を引き取るその時まで、自分の心を成長させていくことが、親心に報いる生き方なのだと思います。

 

みんなちがってみんないいと言いますが、

みんな違うから他人のことはどうでもいいというのではなく、

ひとは一人では生きていけないのだから、

みんなちがってただのバラバラにならないように、

 

ご縁の方々とのよりよい関係を、

ほどほどの距離感で、

つないでいけたらと思います。

 

いまはただ「南無阿弥陀仏」の声に、耳を澄ましましょう

n a m a m d h a b u d

 

graphic:Ikuo Yakushimaru