他者を思い遣る気持ち、慈悲の心は、誰にでもあるはずです。けれども私たちの心は自分本位で、自己中心的で、誰かに何かをしてあげるといっても、見返りを期待するような損得勘定が働いたりもします。

ひとのことを心配したり手助けしたいと思ったりても、いつでもどこでもだれにでもというわけではありません。自分にとって好ましく感じる人でもなければ、自分からその手を差し伸べようとはしないこともあります。

ひとのことを想い、共感することはあっても、基本的に他人のことは他人事です。

深刻な社会問題のニュースを神妙な顔で見ていたかと思えば、スポーツの勝った負けたに一喜一憂したり。かと思えば、明日の天気は暑いとか寒いとか、愚痴ったり。

いつも気もそぞろで落ち着くことなく移り気で、心が一つに定まるということがありません。

世界のどこかで困窮している方々のことを心苦しく思うことはあっても、自分のことで精一杯で、自分のことを差し置いてでも駆けつけるなんて、なかなか出来ないのが、正直なところです。

 

親子であっても親友であっても、どれだけ親しく愛しい人であろうと、完全にその人のことを分かってあげられるわけではありません。そばにいても気付けないことは、どうしてもあります。

大体にして親からの忠告は一言多いもので、それを子供は「うるさいなあ」と思うものです。ひとの為に良かれと思ってすることが、おせっかいやありがた迷惑、大きなお世話なんてことも、よくあります。

伝えたい思いがあっても、思うように伝わらないことのもどかしさに、

つい苛立ってしまうこともあります。腹を立てて怒ることもあります。

分かってほしいと思う気持ちもあれば、

分かってたまるかという気持ちになることだってあります。

 

身近な人との間にこそ、人間関係の悩みは起こりがちです。

人の心というものは、本当に切ないものだと思います。

 

 

先の頁では、親になってようやく親心に気付けたなどと殊勝なことを申しましたが、人間の親の心の限界というか、粗末さというか、愚かさというか、至らなさというか。そういうことに気付かされることの方が、正直ほとんどの日々です。

子供の運動会で、自分の子供が出ていない徒競走のときには「みんながんばれ」と応援しているのに、自分の子供が走っているときには脇目も振らず「うちの子がんばれ!」になってしまって、手に持ったビデオカメラのレンズには、自分の子供のアップしか写っていません。

もちろん人間ですから、それでいいのだと思います。人間の親ですから、自分の子供が一番大事でなければいけないと思います。

けれどもそれが大きくなって、高校、大学、就職の試験にもなると、親も必死です。「生き馬の目を抜く弱肉強食の世間だ!」なんて殺伐としたことさえ言い出しかねません。

大らかな心で「みんながんばれ」と見守っていたいのですが、どうしても子供同士を比べてしまうのは、悲しいことですが、人間の親の性(さが)です。自分本位に、自己中心的に、自分の子供を自分のもののように扱おうとしてしまうのは、親のエゴです。

私たちの「慈悲心」には限界があるようです。意識の境界線が、人と人とを分別して、比較してしまうのです。自と他を比べてしまうのです。

人の親であることの限界に、言いようのない切なさを、感じざるを得ません。

 

Ⅲ④ みんなちがってみんないい? >>>