私がまだ小さな子供だった昭和の頃には、今よりもずっとお寺が地域の生活に密着してあって、お寺参りを日常的な習慣にしている方々がまだ多くいらっしゃいました。

今ほど長命の時代ではなかったので、若くしてお父様やお母様、お子様などを亡くされた方々が、死別をご縁としてお寺参りを始められるということも少なくなかったようです。まだ戦後2、30年しか経っていない頃だったわけですから、戦争でお身内を亡くされた方々も、多くいらっしゃったのだと思います。

当時は随分お年寄りのように思っていましたが、いまにしてみれば60代から70代ほどの方が多かったのでしょうか。その頃お参りいただいていた方々のほとんどはもう既に亡くなられていますし、まだご健在だったとしても、施設に入居されているように思います。

月に2回あったお寺のお講の夜には、みんなで御堂に集まってお経を読んで、ご法話を聴きました。お焼香の香りが立ち込める堂内で、「なもあみだぶ」「なまんだぶ」「なんまんだぶ」というお念仏の声が響いていました。そんな光景が、子供時代の記憶として残っています。

かつて浄土真宗の門信徒には、ご本尊である阿弥陀さまのことを「親さま」といって、親しみを込めて呼ぶような習慣がありました。 「親さまのおかげさまで、なんまんだぶ、なまんだぶ」 そのような言葉が自然と出てくるほど、お念仏の信仰が身に付いている方々がいらっしゃったのです。

8年前に84歳で亡くなった私の父、前住職も、生前中は法話の中で「真実の親心の呼び声」というフレーズを、決まり文句のように言っていたことを思い出します。

若い頃には古臭いお年寄りの言葉としか感じていなかった「親さま」「真実の親心」といった言い回しですが、それを耳にすることが無くなった今となっては、人としてとても大切な心情が、言葉に込められているように感じられるようになりました。

私も「ひとの親」になって、それ相応の年配にもなって、ご縁の方々とのお別れを重ねて、ようやくその気持ちに気付けるようになってきた気がするのです。

 

Ⅲ② 親という心 >>>