どのような人も、1人で生まれてくること、1人で生きていくことはできません。誰かと誰かが出遇うことで生まれて、誰かとの出遇いに育てられることがなければ、いまここにはいません。私たちは様々な人との関わり合いのなかに生まれ、そして生きています。

子供の頃や若い時には感じなかったことを、結婚して子供に恵まれ、親になって感じるようになりました。親の忠告に耳を貸さず、自分のことしか考えずにやりたい放題するばかりだった私でしたが、人の親となって、親とはこんな気持ちになるものなのかと、ようやく気付かされた気がするのです。

子供が産まれたとき、ぐずって泣き出す赤ん坊を抱きかかえて「大丈夫、だいじょうぶ」と声を掛けてあやすようになっていました。自分の子供を慈しむような気持ちが、私のような者にも芽生えてくるものなのかと、とても不思議に感じられました。

子供が幼稚園に通うようになると「気をつけて、いってらっしゃい」とその後ろ姿に声を掛けて見送るようになりました。元気で大きく育ってほしいと願うような気持ちが、自分にもあることに気付きました。

子供が2人3人と生まれて、やがて兄弟げんかをするようになると「みんな仲良くして」と声を掛けるようになりました。親である自分にとっては、どの子もかけがえない大切な子供です。仲違いだけはしてほしくないと、自然と心に思ったのです。

「だいじょうぶ」「きをつけて」「みんななかよく」

見守り、呼びかけ、成長を願う。このような気持ちを「親心」というのかと、気付かされたのように思います。

自分のことしか考えないような「餓鬼」そのものだった私が、子供が生まれたことで親になるご縁をいただいて、自分にも親心があることに気付いたのです。

 

「親」という字は「したしい」とも「ちかしい」とも読みます。そういう意味では、親心は必ずしも血縁のある親子関係だけに言うものではないでしょう。 親方とか親分とかという言い方があるように、誰かを見守り育てようとする心が、親心なのだと思います。

親身になってくださった恩師や、親友のことを思い遣るということもあります。「今頃どうしてるかな」「元気でいるかな」と想う気持ち。遠く離れていても、すぐそばにいるように感じる心。血のつながりが有っても無くても、親愛なる人のことを思い遣る心、それもまた親心なのだと思います。

 

深い親しみの心からひとのために尽くそうとすることを「親切」といいます。親を切ると書きますが、ここでの「切」の字は「切に」とか「切ない」とかと言ったりするように「深く心に感じるさま」を意味するものです。

こんな自分のことを大切に思ってくれて、悲しい時にそばにいて励ましてくれた人のことを思い出します。不安で恐れているときに、勇気を与えてくれた人のことを思い出します。

 

みんな、誰かの親心に見守られ、励まされて、育てられてきたことでしょう。

ひとのことを自分のことのように思い遣り、心を隔てることなく、心から寄り添う。

そんな親心を、「慈悲心」とも言い換えられると思います。

 

Ⅲ③ ひとのこころせつなし >>>