昨年の春より世界中がコロナ禍に見舞われて、これまでの社会が一変してしまった様子です。時が経つにつれて、かつては当たり前にあったことでも、もう取り戻されることがなくなるのではないかと、思われるようにもなってきました。

仏教では「諸行無常」が説かれます。すべてのものごとは移り変わっていくのですから、これまでの通念が変化していくのも、受け入れなければいけないということでしょう。

けれどもまた仏教では、「諸法無我」と説かれます。すべてのものごとは、関わり合いのなかに起きているということです。さまざまな影響を受け与え合いながら、それぞれが存在しているということです。

ウィズコロナといわれるような状況が進んでいく中で、社会の変化に応じて、自分自身がそれにどう関わり、どう前向きに変わっていけるかは、私たち一人一人の意思次第です。

 

 

これまではすべての浄土真宗寺院で毎年の慣例として執り行われてきた「報恩講」ですが、慶集寺の所属する「浄土真宗本願寺派富山教区富山北組」では、各寺院が内々の判断で執り行うようにとの通達がありました。コロナ禍の社会状況にあって、2年続けて同様のお達しです。

旧来からのお寺参りに慣れ親しんでいた年代層の方々は、それを続けることが事実上困難になっています。かといってそれが次の世代のライフスタイルに引き継かれているかというと、残念ながらそうではありません。コロナウイルスの流行に関わらず刻々と進行していく超少子高齢化のなかで、かつてあった盛大な法会や賑やかなお斎を、以前と同様のかたちで復活させられる見通しは、大変厳しくなっています。そもそも組織のあり方自体が、これまで通りにはいかなくなっていくことの予測も、宗派の研究所より報告されています。このままでは低調の傾向をたどっていくしかありません。

すべての寺院が横並びに同じやり方で、寺院の運営を維持していけるような時代ではなくなったのかもしれません。各寺院がそれぞれに持つ特徴を活かすようにして、独自のやり方でその活動を成り立たせていく必要があるのだと思います。

 

 今年、令和3年は、日本仏教の始祖と仰がれる聖徳太子の、1400回大遠忌となる大切な節目の年です。本来であれば太子の仏恩に報じて、例年にも増して盛大な報恩講をお勤めしなければいけないはずですが、いまだコロナ禍にある状況にあっては、無理をして多くの方々のご参加をお呼び掛けることが、得策であるとは思えません。

慶集寺が今するべきことは、 日本の在家仏教の、浄土真宗の寺院として、何を信じ何をよりどころとしていくのかを、今一度、しっかりと見究めることです。

いまはぐっと屈み込んで、やがてくるタイミングに大きく跳躍しようとするイメージです。

 

今年の報恩講は、参詣者を招かない、寺族内でのお勤めとさせていただきますが、慶集寺のホームページにて、『寺族心得・十七条憲法[意訳]- 信よりつながりひろがる和 -』という文章を公開させていただきます。

聖徳太子ならびに親鸞聖人の御恩に報いて、志を新たに仏道を生きることの決意表明と読み取っていただければ幸いです。

合掌

南無仏