私たちのこの世界には、さまざまなものごとがあり、それらのそれぞれに、それを指し示す「名前」がある。存在は名前をともなって、はじめて「認識」となるのだ。
この世界の素晴らしさを、言葉にしてみよう。私たちの身のまわりにある美しいものたちを、心に感じて、それを伝えよう。美しい名前として、それを呼びかけよう。
さまざまな名前であらわれる、
その美しい仏がたの名を
呼びかけよう。
人間の世界に生まれて、誰かに名付けられて、私として生きている自分も、やがてはその命を終えて、時とともにその名前は、忘れ去られていくのだろう。
けれども、極楽に生まれるならば、仏としての名前を保つことができる。仏の名前をもって、仏として生きることができるのだ。
仏と成って、仏の名と成って、
生きることができるのだ。
成仏できるのだ。
仏の名をもつ先人方は、アミタ・ブッダの名前をほめたたえている。その名前の素晴らしさを、その響きの素晴らしさを、ほめたたえている。アミタの名とひとつになって、私たちを見護ってくださる。
人間の思い計らいを越えた、大いなる心で、私たちを見護ってくださる。
すべての世界の隅々まで、
その名のとどかないところはない。
シャーリプトラよ。君はどう思うだろうか?
なぜこの「アミタ」の教えは、「すべての仏がたのお見護りくださる教え」と称されるのだろうか。
シャーリプトラよ。もしも私の教えを聞くものたちが「アミタ」の名前とそのいわれを聞くようであれば、そのものたちはみな、仏がたに導かれ、涅槃の境地に気付き、目覚めるのだ。
人間の世界の呪縛から、解き放たれるのだ。
だからシャーリプトラよ。あなたたちはみな、わたしの説くこの「アミタ」の教えと、すべての仏がたのほめたたえられる「アミタ」の教えを、深く信じて、わずかなりとも疑ってはいけない。
アミタ・ブッダの名のりは真実であることを、
真心であることを、信じるべきである。
シャーリプトラよ。もしも人々が、アミタ・ブッダの極楽の国に生まれたいと思うようであれば、
過去にそれを願ったものも、
今まさに願っているものも、
あるいはこれから願うであろうものも、
すべてみなこの国に生まれているであろう。
今まさに生まれるであろう。
やがてこれから、生まれるであろう。
過去・現在・未来を通して、アミタ・ブッダの名が世界に響き渡らない時代はない。その願いの絶えることは、けしてない。だからシャーリプトラよ。仏の教えを素直に信じて、極楽の国に生まれたいと心から願うものたちは、やがて気付くはずだ。
涅槃の境地は、いつもどこでも、
いまここにも。あることを。
だからこそ願い、念じるべきである。
極楽浄土を。アミタ・ブッダを。