2014/02/05 北日本新聞 朝刊

謹啓

琳空山 慶集寺 第十七世住職 浄空院釋照護 俗名 河上省吾の存命中は一方ならぬ御厚情を賜り 有り難く 厚く御礼申し上げます

河上省吾の長男である私の名前「朋弘」は、俗名では、訓読みで「ともひろ」と読みますが、僧侶としての名前である法名では「ほうぐ」と発音します。この名前は、父が、私に、付けてくれた名前です。

南無阿弥陀仏を称える仲間のことを「御同朋(おんどうぼう)」といいますが、真心の”朋”を世間に広く”弘”げるようにと、願いを込めて、父はこの名前を、私に付けられたのだと、思います。

私は毎朝七時に、寺の本堂の鐘を叩きます。それは、私が父親のもとで僧侶としての勤めを始めた十五年前から父親から引き継いで、毎日続けている、一日の始めの日課です。

そして「正覚大音 響流十方( 真実の目覚めの大いなる音 十方に響き流れる )」というお経の一節に由来して名付けた私の長男、小学三年生の息子「 響(きょう)」と、今日一日の始まりに本堂へ行ってお参りをするのが、ここ数年毎日続けてきた、私たちの朝の日課でした。

晩年の父は、私の息子が毎朝お参りしてくれるのをとても喜んで、それをいつも待っていてくれました。私も、父と母と息子と、四人でお勤めができることを、とても幸せに思っていました。

けれどもその日の朝は、いつもと同じように朝七時に鐘を叩き始めたのですが、その途中に母が慌てた様子で、父の容態が急変していることを知らせにやって来ました。

自坊の庫裏の寝室で、床に伏して息衝く父の耳元に、何度も何度も呼びかけ続けましたが、私と母と息子に看取られる中で、静かに、父は亡くなりました。

二月四日、立春の日の朝、七時十三分でした。

本当に、父らしい、僧侶らしい、立派な最期だったと思います。

寺の住職を勤めた者は、往生の素懐を遂げて、荼毘式をお勤めするにあたり、御本山より院号法名を受けることを許されます。

父の院号法名「 浄空院釋照護(じょうくういん しゃくしょうご)」は、第十七世 琳空山 慶集寺 住職であります父親から引き継いで、第十八世住職となった私、釋朋弘が、その名前を付けさせて頂きました。

上三文字、院号の「浄空院」は、極楽浄土の「浄」と 色即是空の「空」で、「じょうくういん」と発音いたします。

法名には、仏教徒であることの印として、仏教の開祖である釈尊の「釋」の一文字を、まずはいただくことと定められております。

そして釋に続く二文字を、俗名の「省吾」の文字に置き換えて、私たち浄土真宗の念仏者が毎日お勤めしている『正信偈(しょうしんげ)』の一節[ 摂取心光常照護(せっしゅしんこうじょうしょうご)]からいただき、「 てらし まもる 」と書いて、「 照護(しょうご)」とさせていただきました。

生前の父の法名は、俗名と同じ漢字を用いて「 釋省吾 」といいますが、私の思いから、この文字の「 釋照護 」に置き換えさせていただきました。

父は、人間としての八十四年間の人生を「省吾」という名前で生き抜かれました。

父省吾は、幼少の頃に父親、私の祖父を亡くし、小さな頃から僧侶として寺の仕事を勤めてまいりました。一休さんのような小坊主の頃から、毎日『正信偈』を読んでいたのだと言っていました。

そして父は自分の名前の由来を、「 わしは昭和五年生まれだから、父親が [しょうご] と付けたんだ 」と言っていました。また、省吾の「しょう」は「省みる」の「省」で、「ご」は「私」を意味する「吾」の文字があててあるので、「 いつも自分のことを反省しなさいと、父親に言われているみたいだ 」と、苦笑いをするようにして、言っていたこともありました。

私は、祖父が「 しょうご 」と発音する名前を、「 てらし まもる 」という意味も含めて、父に名付けたのではないかと思っています。父も、生前にそれをいうことはありませんでしたが、心の中では、そう思っていたはずだと、思います。

祖父も父も私も、毎日何度も読んでいる『正信偈』なのですから、ただの偶然や、こじつけなわけではないはずです。

いつも我を省みて生きようとするあなたを、私はいつも見守っています。「 省吾 」という名前には、祖父のそんな願いが込められているように、思われるのです。親は、心からの願いを込めて、自分の子供に名前を付けるものだと思うから。

そう、おもうのです。

 

院号の「浄空院」は、濁りも汚れも無いという「浄」と、天上の空を示す「空」で、「じょうくういん」と読みます一点の曇りもなく澄み切った空、といった意味にも読めると思います。

冬の北陸の空は、分厚い雲に覆われて、凍える雨や、みぞれや、雪を降らせます。けれども、どんな天候の日でも、雲の下の世界が真っ暗闇になることは、決してありません。かならず、光がここに届いて、私たちを照らしてくれます。

春になればまた、澄み渡った青空からいっぱいの光が降り注いで、冬の間に降り積もった雪を溶かしてくれて、私たちを、明るく照らしてくれると思います。

私たちはいつも、どんなときも、光に照らされ、護られているのだと思います。

みんな、一人ひとりが願われて、大いなる命に、生かされているのだと思います。

父も、祖父も、代々の御先祖様方も称えられた「 南無阿弥陀仏 」が、いまここに私の声となり、いまここに、響いてきます。

父親は生前にご法話の中でよく、「 南無阿弥陀仏は、真実の親様の呼び声です 」と語っていました。

「 みんななかよく 」が父親の唯一の遺言だったように、南無阿弥陀仏のその声は、末代までもこの世界が平和であるようにと願った、一心の親心の、響き伝わる願いの声だと、私は聞いています。

浄土真宗の教えでは、他力念仏の法義を教え、南無阿弥陀仏の信心を伝えてくださる師匠のことを、「善知識」「よきひと」と呼んで、尊敬の念を表します。

父、省吾は、私にとっての かけがえのない「善知識」「よきひと」です。

私と父は、それぞれがそれぞれの個性を持ち、それぞれがそれぞれの時代の状況を生きる、独立した人格ですが、同じく称える「 南無阿弥陀仏 」のお念仏のもとに、私たちは同じく一つです。

私の、僧侶としてのすべては、すべて、私の師匠である父親の指導のもとに、受け継ぎ、守っているものです。これを次の世代に受け渡し、代々継承していくことこそが、父と、私の、切なる願いであり、私たちの人生の、使命なのだと思っております。

私たちに先立ち、浄土に往生された、浄空院釋照護 俗名 河上省吾は、私たちのご先祖様方と一つになられて、永遠のひかりといのちのもとに成仏されて、私たち一人ひとりのすべてを照らし、護ってくださっているのだと、私は信じています。

自分のいただいた命を、与えられた役割を、おかげさまでありがたく、精一杯に、勤め抜かなければいけないと、思っております。

今後とも、琳空山 慶集寺を、宜しくお願い致します。

平成二十六年 二月

琳空山 慶集寺 第十八世住職  釋 朋弘

 


2003年11月 慶集寺本堂前にて
(写真/本多 元)