「アミターバ(阿弥陀のひかり)」は、永遠無限の光であって、分けられることの無いただ一つの光です。しかしその性質は多様に表現されて、「十二光」の名を以て私たちに明らかにされます。

その光は、

果てしなく広がり満ち満ちている光(無量光・無辺光)であり、

何者にも妨げられることのない光(無碍光・無対光・光炎王光)であり、

無明の煩悩を打ち破る光(清浄光・歓喜光・智慧光)であり、

思慮分別に越え優れた光(不断光・難思光・無称光)であり、

自然界を超えてそこにある全てを含む真実の光(超日月光)です。

そしてその光源は、永遠無限の寿(いのち)「アミターユス(無量寿)」です。

 

帰命無量寿如来 南無不可思議光
きみょうむりょうじゅにょらい なもふかしぎこう

正信偈の冒頭の二句には、永遠無限のいのちより不可思議なるひかりが放たれていることを、明らかにされています。

 

 

実際に命は光を発します。闇夜のホタルや、深海のチョウチンアンコウや、光るキノコや微生物だってあるように、いのちはひかるものです。

スポーツ競技で躍動するアスリートや、ステージ上で表現するアーティストを見ると、その姿はキラキラと輝いて見えます。それはプロのパフォーマーに限られることではありません。自らのエネルギーを自由に発散して、自分らしく楽しそうにしている人は、輝いて見えるものです。どんな人でも、自分にふさわしい場所で、無理なく自然と何かに打ち込んでいるときには、その姿は光り輝くものだと思います。

 

ひかりそのものを見ることはできませんが、ひかりに照らされているものの形は見えます。いのちそのものは見えませんが、いのちの宿っているるものの姿は見えます。触れられます。

ひかりといのちは、表立ってそのものを現すことはありませんが、目には見えない「おかげ」となって、すべてのものの裏側に働いています。まさにそれは「おかげさま」の働きです。

ひかりはいのちであって、いのちはひかりであって、ひかりといのちは分けることのできない一つのエネルギーです。光と寿はこの世界の「根源」としてあるものだと私は思います。

 

 

正信偈の83・84句目には、

必至無量光明土 諸有衆生皆普化
ひっしむりょうこうみょうど しょうしゅじょうかいふけ

と説かれています。

量り知れない光の世界に必ず至って すべての生きとし生けるものは、その光に救い取られると説かれています。私たちが至るはずの約束の場所は、決して暗闇の世界などではなく、光に満ち溢れている世界であると、正信偈には説かれているのです。

 

光は必ずいまここにあって、必ずいつでも、どこにでもあります。ひかりといのちは、私たちの世界の「基底」として、今現にはたらいているものだからです。

仏教に説かれる「正しさ」とは、「ありのまま」ということです。

いまはただ、ひかりといのちの、いまここにも確かにあることを、

ありのままに気付くことから始めましょう。

 

  

令和3年5月6日(木曜日)
慶集寺花まつりウイーク
第1回 琳空館セミナリウムにて
写真:馬塲正二 氏

 

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