光吸収率99.995%という、ほとんど真っ黒な、光を反射しない物質が米マサチューセッツ工科大学(MIT)の研究チームによって発見されたといいます。けれども0.005%は光を反射するわけですから、それでは「完全な黒」とは言えません。それは「ほとんど黒」としかいえないものです。

有と無や、白と黒のような二項対立する概念と同様に、「光」と「闇」とを二つに分けて考えがちな私たちですが、「光」がつくり出すのはあくまでも「影」です。私たちが認識する世界には「明るいところ」と「暗いところ」があって、物に光が当たるとそこは明るく照らされるし、その反対に影をつくって暗くなるところもあります。けれども、その影のなかにも明暗のグラデーションをつくり出す、光が含まれているのです。影には光が含まれているのです。

光があるところには必ず影が生じるだけであって、光に対する闇が存在しているわけではありません。けれども私たち人間の思考の構造は、どうしても二つに分ける方法をとって、極端な断言をしがちなもののようです。二項対立する相対的で固定化した観念が、光に対する闇のようなものを想定してしまうのでしょう。

世界をありのままに見るなら、闇というものは私たちの外界にあるわけではなく、私たちの内側にあるように思われます。これを仏教では「無明」といいます。

「アミターバ(阿弥陀のひかり)」は、どんな心の闇をも打ち破ると説かれます。心の闇に、希望の光を差し込んで届けるのです。ゆえにこの光は[不断光]と称されます。その光は、時間的にも空間的にも観念的にも、何ものにも断たれることなく、すべてを常に照らしています。

 

 

(10)難思光 

私たちは物事を二元論で相対的に分別して理解しようとしがちです。勝ち負け、正誤、善悪、美醜などというように二つに分けて、それを固定化して認識することで、物事を自分の価値観で判断しようとする習性があります。まずは主体と客体の二つに分けて、自分の基準で対象を把握しようとするのです。こうした知性のあり方を、仏教では「分別知(ふんべつち)」といいます。

言語の構造自体が、本来は意味のない音や文字の連なりを単語や文節に「分けて」認識して、その意味を「分かろう」とするものです。私たちの使う言葉はその性質上、基本的には「分別知(ふんべつち)」の領域にあるものです。

 

しかしながら言葉には、そのような論理的知性の領域をはるかに超えてはたらく、不思議な力があるようです。分かれていない、分からない、そうした領域を伝える言葉もあるのです。「分別知」を越えてはたらく理性のあり方を、仏教では「無分別智(むふんべっち)」といいます。

無分別智とは、ものごとを分けて見ない、あるがままにひとつとして見る直観的で超越的な理性です。人間の分別的な知性を「知恵」と記すなら、分別を越えてはたらくそれは「智慧」と表記されるものです。

 

思議というのは「思いはかる」ということであって「思慮分別」という意味です。「不可思議」という言葉は「思慮分別の範疇を超える」ということで、「思い難し」とも言い換えられます。

人間の知恵でははかることのできない、思いはかることのできない、そのような領域があることを明らかにしようとするのが[難思光]のはたらきです。正信偈の二句目に「南無不可思議光」と称される光は、そのまま[難思光]とも言い換えられます。

 

 

(11)無称光

ミステリーやオカルト、UFOや幽霊、怪奇現象のようなものが、特段「不思議」なことではないように思います。本当は分からないものに対して、自分の認識しやすいイメージであたかも分かっているかのような受け取り方をするのは、自らの「思議」の範疇によるものであって、極めて恣意的(論理的な筋道の通っていない自分本位な物事の進め方)だからです。

私たちの生きるこの世界は、不思議なことだらけです。この世界で自分の「思議」の及ぶのは、ほんの小さな範囲のことでしかありません。私たちは不思議のなかに生きていると言ってよいほどだと思います。そう見るほうが「ありのまま」であるように思います。

英語でいうwonderは「不思議」という意味ですが、その形容詞のwonderfulは「素晴らしい」「驚くべき」と訳されます。形容詞の語尾につく-fulという接尾辞は、「〜がいっぱい」とか「〜に満ちている」という意味を施すものですが、wonderに-fulがついてwonderfulというのは、とても意味深いことに感じられます。

この世界は不思議に満ちていて、それだからこそ、素晴らしい。不思議というのは、怖いことや恐ろしいことではありません。不思議は感動に満ち溢れているのだと、感じていいと思います。

圧倒的な驚きに満ち溢れているのがこの不可思議なる世界なのです。そう感じることの方が、心が晴れやかになる感じがします。

 

名号を口に称えて仏を念じることを「称名念仏(しょうみょうねんぶつ)」と言います。「称」の字には「となえる」という意味と同時に「たたえる」という意味もあります。

「アミターバ(阿弥陀のひかり)」は[難思光]であって[不可思議光]であって、それを通常の論理的な言語で説明することはできません。その光の素晴らしさは、私たちが通常用いるような言葉では、言い尽くせないことなのです。ゆえにそれは[無称光]と言い表されます。

 

どれだけその名を称(とな)えたとしても、それを称(たた)え尽くすことはできません。

その光の、その名号のはたらきは、

人間の言葉では称(とな)え尽くせず、称(たた)え尽くせないものなのです。

 

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