お葬式についていろいろ調べてみようと思ってインターネットで検索していたら、2017年9月の朝日新聞デジタルに「自分の葬式は必要ですか?」という質問に対する、読者モニターのアンケートをみつけました。

その結果は、「はい」が44%で、「いいえ」が56%

なんと、葬儀は必要ないと考える人の方が多いという結果になっているのです。

朝日新聞の読者層といえば、いわゆるリベラル層。インターネットを利用する都市生活者の中高年層といったところにモニターが絞られてくるのも、織り込み済みで見なければいけない数字です。

それにしても、過半数の人に、葬式不要の意思があるというのは。。。

焼いて墓に入れてもらうだけで十分。つまらぬことに金をかけたくない(東京、71歳男性)

のコメントを、葬儀業界に携わる僧侶として、どう受け取ればいいのか。。。

 

しかしながら「葬儀は必要ない」と答えた人の理由として挙げられた上位の3つが、

① ひっそりと終わりたい 511人
② 形式張ったことはしたくない 489人
③ お金がかかる 434人

であるのをみると、自分にもそんなふうに考える部分が、ないとも言い切れず。。。

 

 

宗教学者・島田裕巳氏の『葬式は、要らない』という本が出版されたのが、2010年。

そのタイトルのインパクト以上に深みのある内容ではありませんでしたが、その本が30万部を売り上げたベストセラーだといっていることからみても、それに呼応する時代の流れがあったことは否めません。

この本のなかに書かれていたのは、当時の日本の葬式費用の平均とされる231万円という額が、諸外国の葬式費用に比べて相当に高いものであるということでした。

具体的には、アメリカは44万4000円、韓国は37万3000円、ドイツは19万8000円、イギリスは12万3000円で、その本の小見出しには「葬式費用231万円は世界一」と書かれています。

たしかに、日本の葬儀費用は高額すぎるかもしれません。葬儀社に依頼して、一般的といわれる内容のご葬儀のお世話をしてもらって、檀家寺(門徒寺)に依頼してならわしやしきたりどおりの儀式をしてもらえば、いつのまにやら費用が大きく膨らんでいくのでしょう。

そんな状況に反動的になったか、島田氏は2016年に『0葬-あっさり死ぬ-』という本を上梓されました。そのなかには、葬儀をしないで、ご遺骨も火葬場で引き取ってもらって受け取らない、そんな方法が提唱されています。このやり方なら、葬式の費用は0円でできる、のだそうです。

コロナ禍の2020年に出された氏の新刊は、その名も『捨てられる宗教』。その帯には「四十九日も三回忌も、もういらない-未曾有の長寿社会が産んだ信仰ゼロ社会に宗教学者が切り込む!」という文字が並んだあとに

「葬式なんてめんどくさい!」

と大きく書かれています。

 

超高齢化社会においては、喪主となる方が定年されていることは、めずらしくありません。長期に渡る施設や病院での生活の末に亡くなられた方の場合には、それまでは親密にお付き合いしていた方とも疎遠になって、亡くなられたことが知らされないままになってしまうこともあります。

これまでは「一般葬」といわれてきた慣習的な葬儀の形式が次第に崩れて、身内の親族だけで勤める「家族葬」の方が一般的にもなった昨今です。現在のコロナ禍の状況にあっては、葬儀の小規模化、簡略化は急激に進んでいると思われます。

 

しかしながら、家族葬と一言にいっても、家族のあり方が様々であるように、そのあり方も多様であって当然です。どんなご葬儀であっても、亡くなられた方を偲ぶご縁の方々が、その方にふさわしいかたちで集まり弔われることは、やっぱり大事なことだと思います。

どんなご葬儀であっても、その方らしさがあらわれていることが、大切なのだと思います。

 

儀式をするのにお金がかかりすぎるというのは、昨今の厳しい経済情勢のなかでは、致命的で根本的な問題です。かといってそれが、葬式いらない→お寺もいらない→宗教いらない となってしまうのであれば、経済的な問題というよりも、葬儀式を司る「宗教者」の側の問題であると受け取るべきだと思います。

宗教のあり方を批評するのが「宗教学者」であるなら、宗教のあり方を模索して、それを実践するのが「宗教者」の役割なはずです。

お金がかかり過ぎるから葬儀式をしないというのであれば、お金をそれほどかけなくても、心のかよう素晴らしいご葬儀ができるように、お寺の方から「新しい葬送の様式」を提案していくべきではないでしょうか。

 

 

 

私自身の葬儀に関しては、息引き取ったらなるべく早めに火葬してほしいと思っています。

以前は「直葬(ちょくそう)」といわれていましたが、最近では「火葬式」といわれている葬送の様式を希望します。

無理なく集まることができる範囲の家族に見送られて、静かに、なるべくシンプルに、まずは遺骨にしていただけるとよいと思っています。

けれども、お寺の住職として生きてきた限りは、それだけでは済まないこともよくわかっていますので、お手間を取らせて大変恐縮ですが、改めてもう一度お葬式をしていただければ助かります。

 

浄土真宗の慣習では命日から数えて7週目にあたる49日の頃を機会にお墓に納骨することとなっていますが、四十九日のご法要に替えての「遺骨葬」を、私は希望します。

生前中は導師として何度もご葬儀を勤めさせていただいた、地元の葬儀社の会場で、阿弥陀如来の御絵像の前に法名と骨瓶を安置して、ご縁の方々にお参りいただければ、うれしく思います。

火葬式の施主は、私の家族の誰かがなってくれることが望ましく、遺骨葬の施主は、私が住職を勤める慶集寺の門徒総代の方になっていただきたく存じます。

お寺のご葬儀というといわゆる「社葬」のようなもので、一般的な個人のお弔いとはその趣旨が異なる「宗教法人」のお葬式なのですが、昭和から平成にかけてあったような、古式ゆかしく盛大な儀式を、自分自身は望みません。

 

ご縁の方々との南無阿弥陀仏の声が

共鳴・共振するような場でさえあれば

それがいいと思っています

 

そうあってほしいと 願っています

 

 

 

あとは、自分の葬儀の導師を誰にしてもらうかということなのですが、これはとても大事なことで、ここだけはいい加減にはできません。

私の希望としては、慶集寺の次の住職となる人にその役をお願いしたいと思っているので、それを確かに見届けるまでは、必ず死なずに生きているつもりです。

 

 

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