正信偈は、7文字を1句とした120の句からなる偈(うた)です。そしてその最初の1句目が「帰命無量寿如来(きみょうむりょうじゅにょらい)」になります。

浄土真宗という教えは結局のところ、「南無阿弥陀仏」を口に称えながら生きるということです。つまりは「南無阿弥陀仏」のお念仏こそが、浄土真宗の実践のすべてであると言っていいものです。その一番大切な、肝心要の言葉である「南無阿弥陀仏」の意味を言い換えて伝えているのが「帰命無量寿如来」になります。まずはこれを、語句に分けて説明してみましょう。

 

南無 = namo(ナモ) namas(ナマス)= 帰命

まず「南無(なむ)」という二文字は、サンスクリット語のnamo(ナモ)、ヒンズー語でいうところのnamas(ナマス)が中国に渡って音訳されたものです。これが中国語の意味に訳されると「帰命(きみょう)」 という、敬意・尊敬・崇敬・敬礼の心をあらわす言葉になります。

ちなみにインドでは「ナマステ」と言って、互いに手を合わせて挨拶しますが、「te(テ)」というのは「あなた」という意味ですので、ナマステは「私はあなたに帰命します」という意味になります。一人一人の内なる神仏に向けて合掌礼拝することが、インドではそのまま挨拶の作法になっているわけですね。

帰命、南無とは、深く頭を垂れて向き合い「すべてをおまかせいたします」と合掌するような心をあらわす言葉であって、「教えに従い拠り所とします」という意味の「帰依(きえ)」という言葉にも言い換えられます。

 

 

つづく「阿弥陀(あみだ)」の三文字は、サンスクリット語でいうところの「amita(アミタ)」の音訳で、否定接頭辞の「a(ア)」と、量るという意味の「mita(ミタ)」の合成語になります。「ミタ」の意味を「ア」で打ち消した言葉が「アミタ」なのです。

阿弥陀 = amita(アミタ)= 無量

それはつまり「無量(量れない)」という意味であって、それを言い換えるなら「無限」「永遠」いう意味になります。では、何が永遠であり無限であるかというと、「無量寿」という言葉にありますように「寿(いのち)」が無量であるということです。

「寿(ことぶき)」という文字は、結婚式のようなおめでたいときによく見られますが、これは「長命・長寿」を表す言葉です。これに「無量」がつくのですから、それはもう始まりもなければ終わりもない「永遠無限のいのち」ということです。

正信偈120句の一番最初の1句目に「寿」の文字が現れますが、これ以降正信偈の中でこの文字が登場することはありません。最初の1句目に言い切られる一文字だからこそ、そこにかけがえない重要性が込められているように、私には感じられます。

「帰命」という言葉にある「命」の一文字は、「いいつける・おおせ(勅命)」という意味だと親鸞聖人は説かれています。浄土真宗の教義に即した意味で捉えるならば、「命」の字は「仏さまのおおせに素直に従います」という心をあらわすものだと説明されます。

しかしながら、帰命にも「命(いのち)」の文字が含まれていて、続く無量寿にも「寿(いのち)」が含まれていて、最初の一句目に「いのち」を表す文字が二つ重ねて見られるということに気づくなら、この一句目に親鸞聖人が込められた深い念いが感じられてなりません。

宗教とは、仏教とは、浄土真宗とは、生命(いのち)を見つめることに他ならないからです。

 

帰命無量寿に続く「如来」も南無阿弥陀に続く「仏」も同じ意味で、「目覚めたる存在」「悟りを得た者」といった意味を示す言葉です。サンスクリット語でいうなら「ブッダ(buddha)」つまりはいわゆる「仏さま」です。

仏 = buddha(ブッダ)= 如来

仏も如来も、仏教の前提としてある用語なので当たり前のように使われている言葉ですが、だからこそ、その定義をよく理解しておかなければいけないと思います。如来、仏とはどのような概念かということについては、次回以降のお話で、詳しく説明してきたいと思います。

 

 

 

namo(ナモ)amita(アミタ)buddha(ブッダ)

サンスクリット語で発音されたその音を、中国の人が耳で聞いて、漢字に当てはめて音写したのが「南無阿弥陀仏」になります。正信偈の冒頭の一句目で、浄土真宗の教えに無くてはならない根本のフレーズ「南無阿弥陀仏」を「帰命無量寿如来」と言い換えて示されているのです。

「永遠無限のいのちの仏さまにおまかせします」という意味が「帰命無量寿如来」であり、それを「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」のフレーズとして、日頃から口に称えるわけです。

南無阿弥陀仏のことをフレーズなんて言ってはいけませんね。浄土真宗においては「南無阿弥陀仏」という六字「なもあみだぶつ」という音声は、仏さまそのものです。日頃からどんな時にも称えるお念仏ですから、次第に自分にフィットする形で、親しみやすい音の響きに自然となっていくのです。「なんまんだぶつ」だったり「なんまんだぶ」だったり「なまんだぶ」だったり。頭で考えなくても自然と口から出てくる音なのですから、その人に応じて色々になまったりもして、親しまれて身に付いてくるわけです。

漢字や仮名を読むことが難しいという外国の方には[n a m a m d h a b u d]とローマ字に書いて、その音をお伝えすることもあります。これはあくまでも我流の称え方でしかありませんが、浄土真宗という仏教が広く世界に伝わっていくようにと願って、自分なりに試みていることです。

多くの人にとって、お念仏を称えることがもっと親しみやすくなったらいいなと思っています。

 

 

続く正信偈の2句目は、

南無不可思議光
なもふかしぎこう

になります。「南無 = namo(ナモ)= 帰命」は先に説明したように「おまかせいたします」という心を表す言葉ですから「不可思議なる光にすべてをおまかせします」という意味です。

「帰命無量寿如来」では無量の寿(いのち)を言っていますが、次の「南無不可思議光」ではその光(ひかり)が示されています。無量寿如来からは、不思議な光が放たれているというのです。

「いのち」から「ひかり」が放たれるという表現は、とても意味深いことに感じられますね。

この不可思議なる光については、正信偈の11句から16句までの六句に、

(01)無量光 (02)無辺光 (03)無碍光 (04)無対光 (05)光炎王光 (06)清浄光 (07)歓喜光 (08)智慧光 (09)不断光 (10)難思光 (11)無称光 (12)超日月光

という十二の光として、その性質が多様に表現されています。

では順番に、その十二の不思議な光について、解き明かしてまいりましょう。

 

>>>(01)無量光 (02)無辺光

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