鹿野苑での初転法輪の説法において、ゴータマ・ブッダが五人の修行者に向けて語られたのは、縁起の道理に基づく四諦八聖道の教えだったと言われます。

五人の修行者たちが、その教えに深い頷きを得たことは、今にも通じるその論理の合理性によって察せられます。しかしながら、その論理性以上に修行者たちに響いたのは、ゴータマ・ブッダの存在から発せられる、言葉にはできない何かだったのだと思われます。

心が通じ合う何かがあって、以心伝心の瞬間があったことを、私は想像するのです。

 

ブッダとそのダルマを真実真理であると認める人がいなければ、ブッダもそのダルマも真実真理にはなり得ないはずです。

①仏(ゴータマ・ブッダ)

②法(ブッダが説かれたダルマ)

③僧(ブッダと成ることを目指す弟子たち)

の三つが揃うことによって、仏教の法輪が運動を始めたといわれます。

これが、仏教の三つの宝「三宝(さんぼう)」です。

 

日本語で「僧(そう)」といえば、それは僧侶という役割や職業に就く個人、一人のお坊さんを指す言葉になりますが、本来的には「サンガ(僧伽)」のことをいい、それはすなわち、ブッダの教えを学び伝える人々の集まりのことをいうものです。

ブッダの説かれたダルマ(仏法)が、ただの理論でしかないなら、それを理法とはいわないはずです。人間と自然の道理に適うものが「ダルマ」であり、それは、地球上の全ての生き物にとって無理の無いものでなくてはいけません。そしてそれは、多様に存在する人々の立場を越えて、すべての心に、自然と通じるようなものでなくてはいけません。

人類普遍の合理的規範を共にする仲間を「サンガ(僧伽)」といいます。これは、仏法という共通認識に基づく、多様にして寛容な人間関係のあり方なのだと思います。サンガという人間相互の信頼関係があってこそ、仏教という宗教は成立するものだと、私は考えています。

 

仏法僧の三宝は、仏教にとっての欠くべからざる三つの要素です。仏と法と僧の三つは、相互に依存し合い、相互に関係し合い、どれ一つが欠けたとしても、どれもが成り立たないものです。

三宝を心に保つことは「縁起の道理」という仏教の基本原則に適うと言えるでしょう。

 

ゴータマ・ブッダはその弟子たちに、

縁起を見るものは法を見る。法を見るものは縁起を見る。

と語られたと言われます。

 

ゴータマ・ブッダが目覚められたダルマを「仏法」といいますが、それは、気付かないものを気付かせて、目を閉じている者を目覚めさせる教えであり、その根本となるのが「縁起の道理」です。

もしも縁起に適った見方を徹底的に身につけて、自己中心性による思い込みや決め付けから離れて、あるがままにものごとを見ることが出来たなら、疑いようのないありのままの真実に気付きを得て、私たちでもブッダ(目覚めたる者)に成ることだって、原理的には可能なはずです。

むしろ、ブッダのダルマに深く頷き、それを信じようとする私がいなければ、それが真理であるとは言えません。そしてまた、そのダルマを信じるのが私一人だけでしかないのなら、それを真実とは言えません。それを信じる私たち一人ひとりが、お互いの存在に気づき合い、お互いにそれを確認しあうことがなければ、それを人類普遍の真実真理と言うことは出来ないはずなのです。

 

仏教とは、ゴータマ・ブッダただ一人によって創生されたものではありません。それを共有する人々がいて、始めて成立したものであり、ブッダに共感し、ブッダのダルマを共有し、自らがサンガの一人であることの共鳴・共振があってこそ、その教えは時空を超えて、世界に響き伝わっていったはずです。

ブッダのダルマを聞いて気付きを得た人々が、そこから更に、他の人々へと教えを説き広めていったことで、サンガのつながりが、世界に大きく広がり展開していきました。

ブッダとダルマとサンガの三宝は、相互に補完し合い、相互に補足し合い、相互に補性し合いながら、網目のように無限に広がりつながりあって、実は一体です。

仏法僧の相補的な縁起の関係性によって、言葉では表現し得ない悟りの境界「真如法性」が何らかの形をともない、現れてくるのだと思います。

仏と成る、成仏するという現象が、そこに成立するのだと思います。

 

 

ゴータマ・ブッダ在世の頃より仏門に入り成仏を志す人々は、仏法僧の三宝への信順を誓う言葉を唱えられたといわれます。

三宝への帰依を誓うその声は、

 

Buddam Saranam Gacchami  ブッダン サラナン ガッチャーミ

南無帰依仏(なむきえぶつ・私はブッダをよりどころとします)

Dhammam Saranam Gacchami  ダンマン サラナン ガッチャーミ

南無帰依法(なむきえほう・私はダルマをよりどころとします)

Sangham Saranam Gacchami  サンガン サラナン ガッチャーミ

南無帰依僧(なむきえそう・私はサンガをよりどころとします)

 

と唱えられます。

 

三宝を拠り所として生きることを表明するその声は、

今も地球上のいたるところに響き渡っています。

 

photograph: Kenji Ishiguro

 

つ づ く