前述した生物学者の福岡伸一氏は、著書『動的平衡-生命はなぜそこに宿るのか-』のなかで、自然界の基底にある「時間」の概念にも以下のように言及されています。

人間の記憶とは、脳のどこかにビデオテープのようなものが古い順に並んでいるのではなく、「想起した瞬間に作り出されている何ものか」なのである。つまり過去とは現在のことであり、懐かしいものがあるとすれば、それは過去が懐かしいのではなく、今、懐かしい状態にあるにすぎない。ビビッドなものがあるとすれば、それは過去がビビッドなのではなく、たった今、ビビッドな感覚の中にいるということである。

福岡氏が言われるように、紙や磁気テープやCDのような媒体に残されている過去は、あくまでも記録として保存されているものでしかなく、それを見たり聞いたりして過去を思い出したり懐かしんだりしているのは、いまここに生きている自分でしかありません。

脳内の記憶というもの自体が、磁気テープやCDのような物質的な媒体に記録されているのではなく、電気信号(シナプス)がいま現在に反応しているものであると、現代の脳科学では考えられているようです。

過去も未来も固定的なものとしてどこかに定まっているわけではなく、いま現在の内に想起される、この瞬間のものでしかないということなのです。

 

時間は途切れることなくつながっているのですから、本来はそれを 過去 / 現在 / 未来 のような区分で分断することはできません。過去も未来も諸行無常の現在と共にあり、諸法無我の現実と共にあるのです。

いまここの現在とは、無限の過去からつながる延長線上の最先端に現象としてあるものです。そしてまた未来は、現在の先に無限の可能性として広がっているものなのです。

過去も現在も未来も、常に移り変わり続ける現実の流れにあって、それらは常に関わり合いながら一時として止まることはないということです。

分子レベルで生命体を見るならば、分解と生成を際限なく繰り返して入れ替わりながら、その個としての状態を維持しているというのが「動的平衡」という状態です。

そして記憶というものもまた、忘却と想起を際限なく繰り返しながら、いまここの認識を持続している「動的平衡」の状態にあるということです。

 

原因と結果の因果律を相補性原理に基づいて考えてみるなら、原因があるから結果があるのと同時に、結果があるのは原因があるからです。

原因も結果も相互の依存関係にあるものであって、どちらかが変化すれば、それに応じて他方も変化し得るもののはずです。

過去にあった出来事を全く変えてしまうということはできなくても、それに対する現在の捉え方を変えることで、過去に対する認識を変えることは出来るのではないでしょうか。

 

過去を原因として現在という結果があるなら、現在の在り方を変えることで、過去の捉え方だって変わり得るはずです。過去に戻ってやり直すことは出来なくても、いまここの人生を生き直すことなら出来るはずです。

人間万事塞翁が馬という古事もありますが、一見、不運に思えたことが幸運につながったり、またその逆のことだって起こるのが人の世です。幸運か不運かなんて、固定的絶対的に決まっているものではないのですから、一概に断定することは出来ないはずです。

過去にあった出来事を良いこととするか悪いこととするかは、いま現在の自分の脳内で判断していることであって、自分の運の良し悪しを決めているのは、いま現在の自分でしかないのです。

いまの自分が幸運か不運かなんて、自分の思い方次第なのです。

 

災い転じて福と為すという古事もあります。たとえ何かの失敗があっても、そこからどうリカバリーするかが大事であるということです。

幸運とは、よい流れを言います。不運とは、悪循環を言うのだと思います。

 

自らの経験をどう捉えるかは、自らに由ることです。

捉え方は自由です。

自らの人生の生き方は、自由なのです。

 

photograph: Kenji Ishiguro