人それぞれの能力や性格というものは、人それぞれの生き方や環境によって育まれるものですが、持って生まれた先天的な能力や性格というものも、少なからずあるような気がします。

自分が生まれてきた時代や地域、産みの親や生活環境によって、国籍、性別、肌や髪や目の色、経済状況などは人ぞれぞれに異なり、自分の意思で選んだわけではないことは多くあります。

人生というものは、やはり「宿命」と言わざるを得ないものなのでしょうか。

 

辞書をひいて「宿命」の意味を探ってみると、「生まれる前から定まっている人間の運命。前世からの運命」とあります。

宿命の語彙説明に「運命」の語が用いられているわけですから、宿命と運命という二つの言葉の意味に、明確な区別があるわけでは無さそうです。

では次に「運命」の意味を調べてみると、「人間の意思にかかわらず、身に巡ってくる吉凶禍福。幸不幸のめぐり合わせ。運。」となっています。

人生においては思い通りに物事が運ぶようなことは稀で、偶々のタイミングで思いもしないことが起こります。良いことばかりではなく悪いこともあって、ちょっとしたことでどちらにでも転んでいきます。やはり逃れられない「運命」が、人生にはあるということなのでしょうか。

 

自分の意志に関わりなく起きるという意味では宿命も運命も同じですが、「宿命」という言葉には、どこか真剣に思い詰めているようなニュアンスがあります。

宿命の対決とか、宿命のライバルとか言うように、避けることのできない対立や断絶があるような、自由を奪われて深刻になっているような、そんな印象を感じさせる言葉です。

過去にあった原因によって現在の結果があると考える、いわゆる「因果律」にこだわった見方をすると、自分中心のバイアス(偏り・偏見・先入観)が掛かりがちになるのかもしれません。

自らの宿命にこだわることで、他者との関係に分断を起こしたり、自分の殻に閉じこもってしまったり、自分の人生のあり方を凝り固まらせてしまうことがあるような気もします。

今ある自分を受け入れるという意味では、自分の過去を受け入れるということも大切だと思いますが、あまりにも自分のことに思い詰めてしまうのは、不自然な感じがします。

自分の「宿命」を必然として決め付けて、固定的な決定論に凝り固まってしまうのは、とてもじゃないけど、自由な生き方とは言えません。

 

諸行無常という言葉にある「諸行」とは、この世のすべての事象・現象を言います。この世のすべてのものごとに、常なるものは無い、変わらないものはないということです。

それを逆に返して言うなら、この世のすべてのものごとは、常に変化しながらあるものだということです。決して固定的に不動不変のものとしてあるわけではないということです。

宿命的にさえ思われる変え難いことであっても、諸行無常の真理に照らしてみるなら、それはやはり時間の経過とともに変わっていくはずのものなのです。

 

宿命に比べると運命という言葉の方には、まだ幾分、偶然性が働く自由な余地があるような気がします。運命の出会いとか、運命の人とか、ちょっとときめくような語感も感じられます。

運命という言葉には、この世界の偶然性による、巡り合わせの確率論のようなものが含まれているのでしょうか。今日のラッキーカラーとかラッキーナンバーとか、よい兆しと関わりを持つことで、物事が好転させられるような可能性や自由度が、運命にはあるのかもしれません。

 

けれども運命という考え方には、運が良いとか悪いとか、その時々の気持ちの浮き沈みとか、そういう人生の不安定さが含まれているようにも思われます。

人生はゲーム、なんて言い方もありますが、丁か半か一か八かと同様に、吉か凶かの五分五分で、人生の運と不運を捉えてしまうようなところが、私たちにはあるのでしょう。

勝つか負けるか、損するか得するかの確率は半々でしかなく、それはやってみなければわからないことであるのなら、そんな人生の不確定さに我が身の不安定さを感じざるを得ません。

何かを強く信じることで、自分の運気を強くするというような考え方もありますが、思い込みの強さに比例して、そうならなかったときのリバウンドも大きくなるような気がしてなりません。

 

先行きが知れない、この不確かで不安定な人生をどうにか生きて抜いていくためにも、確かな拠り所に基づく、ぶれない生き方をしていきたいと、私は思います。

 

確かに信じるべきことは、どれだけ疑っても信じざるを得ない、本当のことだと思います。

 

そこで仏法には、「諸行無常」に併せて保つべき真理として「諸法無我」が説かれます。

 

仏法に説かれる真理に、浮き世の我が身を生き抜くヒントがあるかもしれません。

 

  photograph: Kenji Ishiguro