仏法に説かれる縁起とは「因縁生起(いんねんしょうき)」が略された言葉です。

ある現象が生起するには、それが起きるための直接的な条件となる原因だけではなく、間接的にはたらく様々な要因、すなわち「縁」がなくては成り立ち得ません。あらゆる存在や事象を形成するための諸条件が「縁」であるということです。

様々な要因が関係し合って、この世の全ての事象や現象が起きている、成り立っているというのが「縁起」というものの見方です。

一切のものは縁起のはたらきによってあるもので、縁起に依らないことは何一つありません。これこそが私たちの世界の「ありのまま」「あるがまま」の見方なのです。

 

ところが私たちといえば、自分の立ち位置から離れることが出来ない自己中心の存在でしかありません。縁起の影響力は私たちの認識を遥かに越えたところにまで及んでいますが、私たちの意識の届く範囲はあまりにも狭く、どうしても限界があります。

原因があって結果があるというのは、因果律の法則として自明のことではあっても、そこでの原因と結果の事象設定に関しては、観察者個人の恣意的な判断や認識が入り込むことは避けられず、どうしても自己中心的な見方をしてしまうのです。

この自己中心性が自意識過剰を引き起こします。

自分本位な偏見で物事を見たり考えたり捉えたりすることで、頑固な自己主張をして決めつけることもあれば、思い込みにとらわれて自己嫌悪することもあります。だれかのせいにしてみたり、自分のせいだと思ったり。思い込みや決めつけで、しまいには人間不信に陥ることだってあります。

 

自らの意思で検証したり考察したりすることなく、ただなんとなくそう言われているからとか、なんとなくそんな感じがするからとか、なんとなく強く断言する人がいるからとかで、なんとなく信じたり、なんとなく受け入れられていたりすることが、世の中には案外多いものです。

占いやまじない、暦を読むとか、加持祈祷などの宗教儀礼、ジンクスとかいった類のことは、往々にして科学的な根拠がなく、そもそもの因果関係も覚束ないものだったりします。

ときに、縁起が良い、縁起が悪いなんて言い回しをすることもあるでしょう。

なんとなく不吉に感じられることに対して「縁起でもない」とか、良い兆し悪い兆しを気にして「縁起を担ぐ」なんて言ったりすることもあります。

通俗的な言い回しとしてそれがあることは事実としても、前回に述べたような仏教本来の「縁起」の意味からすると、それらは明らかな言葉の誤用と言わざるを得ません。縁起とはそれ自体を良いとか悪いとか、吉か凶かと定義したり、自分の力で担いだりできるようなものではありません。

 

ご縁があるとか、ご縁がないとかいう言い回しもあります。しかしながら縁とは、時や場所によって有ったり無かったりするようなものではありません。

私たちの認識を遥かに越えたところにまで縁起の影響力は及んでいて、何ものとも関わり合いなく存在するものは何一つとしてありません。結果を起こすための要因は様々にあって、一つだけではありません。条件となる縁が、すべて揃ってようやく起こることでしかないのです。いつでもどこでも何に関しても、存在するための諸条件としてはたらくのが「縁」であるということです。

 

あらゆるものごとは、何一つ欠けることなく、いまここにある自分にとっての必要条件なのです。表立って現れることが無くても、かげとなってはたらく様々なご縁があって、善いも悪いもさまざまな要因に条件づけられて、いまここの自分があるのです。

 

縁に依て起こる。

すべての現象は縁起し合っています。

すべてはつながっています。

出会いも別れも、ご縁のはたらきによって起きるものです。

 

「縁起を見るものは法を見る。法を見るものは縁起を見る。」

ゴータマ・ブッダが語られた言葉です。

 

ゴータマ・シッダルタというブッダによって説かれたダルマ、すなわち「仏法」とは、縁起の真実に目覚めることで、ものごとをありのままに見て、自分本位な思い込みや決め付けをしないようにするための教えなのです。

 

photograph: Kenji Ishiguro