ブッダの説かれた諸々の法(ダルマ)に通じる原理原則は、すなわち「無我」ということです。

すべての事象や現象は、固定的絶対的にあるものではなく、縁起の道理に従って「何らかの関係性に依存してある」ということなのです。

ものごとをありのままに観察してみるなら、このことは例外なくすべてに関して適合する事実であり、現実であるはずです。

 

ブッダのダルマに照らして考えるなら、本来の仏教において「霊魂」の存在を認めることはないということになります。

肉体には「霊魂」のようなものが内在していて、それは肉体が滅した後にも存在し続けると考えるのであれば、それは霊魂を固定的絶対的なものとして認識することになります。

人がそれを想像することはあるにしても、そこに独立した存在としての実体性を見出すことには無理があります。霊魂を想像する人によって、霊魂は生み出されるということなのでしょう。

 

この世界を統治するような固定的絶対的な「神」が存在すると考えることも、諸法無我の原理に照らして考えるなら、誤りのある見方であると言わざるを得ません。

そうした「神」の存在は、それを信じる「人」がいるからこそ成り立つものであって、信じる人と信じられる神との関係性において、ようやく存在し得るものだからです。

 

同様に、諸法無我の原理に照らして「宿命」について考えるなら、固定的絶対的なものとしてそれに囚われる必要はないということがわかります。

宿命を主体として、自分自身を客体とするのは本末転倒な関係性であって、自分の人生を生きるのは自分自身でしかないからです。あるかどうかもわからない不確かなものに、いまここに確かに生きている自分が支配される必要はありません。

 

全世界、全宇宙を支配するような全知全能の神がいて、この世の創世から滅亡までを統治していると考えるような宗教もあります。世界を揺るがすような大事件には、何か大きな影の組織の力が働いているというような陰謀論が囁かれたりもします。

しかしながら仏教では、すべては関係性のなかに起きていることであって、絶対的で万能な力を常に有するような存在を認めることはありません。誰かの思いのままに、物事の「原因と結果」が把握されたり統治されたりすることはなく、物事は誰の思い通りにもなってはいません。

何らかの事件や事故が起きた時、その原因を固定的に決め付けて誰かのせいにしたり、自分のせいだと思い込んだりすることがあります。けれども、誰か一人だけで為し得ることなど何一つなく、すべては様々な「ご縁」によって起きているものなのです。

 

縁起とは「因縁生起」を略した言葉であり、私たちの世界に厳然とはたらく自然の法則です。結果(客体)とは、ただ一つの原因(主体)によって起こるものではなく、様々な縁(間接要因)との関係性のなかに起きているものなのです。

縁によりて起きる。すべては縁起してある。

結果として捉えられる事象も、直接的な原因として捉えられる事象も、また間接的な要因として捉えられる縁も、すべての事象は相互に依存しあって存在するものであって、そうした網目のような関係性から離れて存在するものは、何一つとして無いとするのが、仏教の世界観です。

 

ある一つの立場からの思い込みや決めつけで、ものごとを固定的に絶対化しないようにするのが、仏教の基本的なスタンスです。それは、一般常識や社会通念や固定概念から自由になって、自分自身を主体的に生きるための思想なのです。

宿命の呪縛から解き放たれて、よりよい運命の流れに乗って生きる為にも、諸行無常と諸法無我を、更に深く掘り下げて考えてみる必要がありそうです。

 

photograph: Kenji Ishiguro