四諦のまず最初に示される「苦諦」には、

私たちの人生の苦の現実を、

ありのままに見るべきであることが説かれます。

 

この世に生まれた限りは、必ず死はやって来るものです。生まれることを原因とする、その結果としての死は必然だからです。生まれることと死ぬことは二つが対になっていて、どちらかだけでは成り立たないということです。

人間の生と死の間には、老いや病いということもあります。時間の経過とともに年齢は重なり、それに伴って心身の不具合も多くなっていきます。

老いと若さも、病気と健康も、二つで対になっているもので、どちらか一つだけではあり得ないものです。それらは相互に依存し合って成り立つ概念であり、現実なのです。

誰もが若いままでいたいと思うし、病気にはなりたくないものでしょう。誰もが元気で生きていたいと願うものであって、やはり死にたくはないと思います。けれどもいつかは誰もが、死ななければいけないのです。

 

その一方で、こんなに辛いことばかりの人生ならもう死んでしまいたいと、投げやりになってしまうこともあるかもしれません。しかしながらそう自分の思うように死ねるわけではなく、よほどのご縁が熟さない限り、人は死ねないものなのでしょう。

若さへの願望があるゆえに老いの苦しみが起きて、健康への願望があるゆえに病いの苦しみが起きるとも言えます。自分の願いや望みが思い通りになることはありません。思うようにはいかないことが積み重なっていくと、心と身体に苦しみが生じます。

 

好きな人や好ましいことがあるなら、嫌いな人や嫌なことだってあるでしょう。同じ人に対しても、時によっては好きになったり、場合によっては嫌いになったりすることだってあるはずです。好きも嫌いも二つで対になっているものですから、どちらか一つだけということはありません。

完全な満足というのは、仮に一時的にはあったとしても、永続的なものではありません。時の経過とともに不足と不満が起こります。何かを失うことの不安から逃れることは出来ず、完全な安心は持続しません。

心も体も自分の思い通りに制御できるわけではなく、ましてや他人のことなど思い通りに出来るわけもないので、人と人との間のぎくしゃくのなかで、誰もがストレスを感じざるを得ないのです。

 

苦諦の真理には、人間社会にあって苦しみから逃れることのできない自分自身の姿を、まずは明らかに直視しなさいと説かれます。

 

photograph: Kenji Ishiguro