Ⅲ因果と縁起
③思い込みと決めつけ

自らの意思で検証したり考察したりすることなく、ただなんとなくそう言われているからとか、なんとなくそんな感じがするからとか、なんとなく強く断言する人がいるからとかで、なんとなく根拠もなく信じたり、受け入れられていたりすることが、案外世の中には多いものです。

占いやまじない、暦を読むとか、加持祈祷などの宗教儀礼、ジンクスとかいった類のことは、往々にして科学的な根拠がなく、そもそもの因果関係も覚束ないものだったりします。

 

ときに、縁起が良い、縁起が悪いなんて言い回しをすることもあるでしょう。

なんとなく不吉に思われることに対して「縁起でもない」とか、良い兆し悪い兆しを気にして「縁起を担ぐ」なんて言ったりすることもあります。

通俗的な言い回しとしてそれがあることは事実としても、仏教本来の「縁起」の意味からすると、それらは明らかな言葉の誤用と言わざるを得ません。

 

仏法に説かれる縁起とは「因縁生起(いんねんしょうき)」を略した言葉です。

 

ある現象が生起するには、それが起きるための直接的な原因だけではなく、間接的にはたらく様々な要因、すなわち「縁」がなくては成り立ち得ません。

縁起とはそれ自体を良いとか悪いとか、吉か凶かと定義したり、自分の力で担いだりできるようなものではありません。

あらゆる存在や事象を形成するための諸条件としてあるのが、縁ということです。

 

様々な要因が関係し合ってこの世の全ての事実や現実や現象が起きている、成り立っているというのが、「縁起」というものの見方です。

一切のものは縁起のはたらきによってあるもので、縁起に依らないことは何一つありません。これこそが私たちの世界の「ありのまま」「あるがまま」の見方なのです。

 

ところが私たちといえば、自分の立場や立ち位置から離れることが出来ない自己中心の存在でしかありません。

私たちの認識を遥かに越えたところにまで、縁起の影響力は及んでいますが、私たちの意識の届く範囲はあまりにも狭く、どうしても限界があります。

原因があって結果があるというのは、因果律の法則として自明のことではあっても、そこでの原因と結果の事象設定に関しては、観察者である当人の恣意的な判断や認識が入り込むことは避けられず、どうしても自己中心的に物事を見ざるを得ないのです。

この自己中心性が自意識過剰を引き起こします。

思い込みや決めつけを引き起こします。

 

自分本位な偏見で物事を見たり考えたり捉えたりすることで、頑固な自己主張をして決めつけることもあれば、思い込みにとらわれて自己嫌悪することもあります。

だれかのせいにしてみたり、自分のせいだと思ったり。

しまいには、人間不信に陥ることだってあります。

 

 

ご縁があるとか、ご縁がないとかいう言い回しもあります。

しかしながら縁とは、時や場所によって有ったり無かったりするようなものではありません。

私たちの認識を遥かに越えたところにまで縁起の影響力は及んでいて、何ものとも関わり合いなく存在するものは何一つとしてありません。

いつでもどこでもなににとっても、存在するための諸条件としてはたらくのが、縁なのです。

 

あらゆるものごとは、何一つ欠けることなく、いまここにある自分にとっての必要条件としてあるものです。表立って現れることが無くても、善いも悪いもさまざまな要因に条件づけられて、かけがえのない、いまここの自分があるのです。

 

縁によりて起こる。

すべての現象は縁起し合っています。

すべてはつながっています。

出会いも別れも、ご縁のはたらきによって起きていることです。

 

人と人とのご縁というものは、

善いも悪いも縁は縁であって、

それを善いこととするか悪いこととするかは、

自分自身の思い方次第、いまここの自分次第です。

 

 

 

「縁起を見るものは法を見る。法を見るものは縁起を見る。」

お釈迦さまが語られた言葉です。

 

縁起というダルマ(法)に気付き、目覚め、悟られたブッダ(仏)が、

ありのままに伝えられたブッダのダルマ(仏法)が、

縁起という真実です。

 

縁起の真実に気付き、目覚め、悟ることで、

ものごとを偏りなく、ありのままに見て、

思い込みと決めつけから解き放たれるための

覚者の真理が、仏法です。

 

 

photograph: Kenji Ishiguro