Ⅱブッダとダルマ
①伝説的ブッダと神話的ブッダ

さて、まずそもそも仏教とはどのような宗教かということを確認しておくと、読んで字の如く「仏の教え」すなわち「ブッダの教え」です。

キリスト教がイエス・キリスト、イスラーム教がムハンマドというように、仏教という宗教にもそれを開いた始祖がいるわけで、それが「ブッダ」であるということです。

前回述べましたように、仏教には多様な仏(ブッダ)があるわけですが、ここで言うブッダとは、歴史的に実在した人物「ゴータマ・ブッダ」を示すこととなります。

ゴータマ・ブッダは約2500年前の北インドに実在したとされる人物で、本名は「ゴータマ・シッダルタ」であったといわれています。なにしろ紀元前約500年という昔のことですから、その人について伝えられていることが史実かどうかは定かではありませんが、シャーキヤ族という種族の王子として生まれたその人が「ブッダ」と称され、尊崇の対象として敬われていたことは、歴史的事実として確かなようです。 

シャーキヤ族を漢字で音写すると「釈迦(しゃか)」になりますので、日本では親しみを込めて「お釈迦さま」と呼ばれています。また他にも「釈尊(しゃくそん)」という呼び方もされますが、これは「釈迦牟尼世尊(しゃかむにせそん)」を略した呼び名で、「釈迦族の聖者」という意味の尊称になります。

ゴータマ・ブッダの時代から約1000年を経て日本に伝わってきた大乗仏教の経典では、神通力で意思疎通したり瞬間移動したりする超人的な存在として神格化されて描かれている釈尊ですが、史実として見るなら、私たちと同様に生身の一人の人間です。

 

このように、ゴータマ・ブッダという歴史的人物を指す固有名詞として認識されることの多い「ブッダ(buddha)」という単語ですが、本来は「目覚めた者」という意味の普通名詞です。

では、何に目覚めた人なのかというと、ブッダとは、「ダルマ(dharma)」に目覚められた人なのだと言われます。

ダルマとはサンスクリット語で「法」という意味の単語で、法とはすなわち「われわれを現にかくのごとくあらしめている、現実に成り立たせている決まりとか規範」という意味を表します。そしてまた本来の意味としては、私たちが生きる世界の根底にはたらく「真理」や「理法」を意味する言葉になります。(参考書籍:中村元『仏教入門』)

ブッダも元々は単なる一人の人間に過ぎなかったわけですが、ダルマに目覚め、ある理想的な完成状態に達したことによって、自他ともに認めるブッダ(覚者)になられたということです。

特別な人であって普通の人。普通の人であって特別な人が、ブッダであるということでしょうか。

私たちの世界にはたらく普遍的な「真理・理法」に目覚められたブッダ(仏陀)から発せられた教えは、自然の道理に適った正しい「規律・規範」を示す教説であり、それはブッダのダルマ、すなわち「仏法」として人々に教示されました。

ダルマを悟ったのがブッダであると同時に、ブッダの言葉がそのままダルマであるとしても受け止められたのです。

ダルマなくしてブッダはなく、ブッダなくしてダルマが伝わることもありません。ゴータマ・ブッダという覚者が存在したからこそ、私たちが生きるこの世界にも、ブッダのダルマ、すなわち「仏法」が伝播していったのです。

 

歴史上の問題としてみれば、仏教はゴータマ・シッダルタ(釈尊)という一人の歴史的人物によって開創されたものに違いありません。しかしながら、ゴータマ・シッダルタが「ブッダ」となるには、人類普遍の「ダルマ」がその前提としてあるのです。

ダルマに目覚められた存在がブッダであるということを突き詰めて考えれば、理論的には、ゴータマ・シッダルタがダルマに目覚められる以前にもダルマはあって、それに目覚めた存在がいたはずだということになります。ブッダ(覚者)はゴータマ以前にも存在していた可能性がある、ということになるのです。

そうした発想に起因し、インド人特有の豊かな想像力の産物として、仏教においては極めて古い時代から「過去七仏(釈尊以前にこの世に現れられた7ブッダ)」という信仰が成立していたそうです。

そして、その観念が後年発達して大乗仏教にまで展開していくと、時間的には過去・現在・未来に、空間的には遍く宇宙空間の隅々にまでその範囲が広がり、無量無数の仏を想定することにまでなっていったようです。

そうして、毘盧遮那仏や大日仏、薬師仏など、さまざまな大乗仏教の仏(ブッダ)が現されるようになっていきます。

 

 

筆者は浄土真宗の僧侶として仏教を勤めていますので、日々の礼拝の対象は「阿弥陀仏」というブッダになります。

ゴータマ・ブッダ、すなわち「釈迦牟尼仏」は人間としての物質的な肉体を持っていたブッダであり、これを「色身仏」といいますが、それに対して阿弥陀仏は、「法身仏」と称されます。

これは、南無阿弥陀仏と称されるその仏が、本来的には色も形もなく、言葉で表現しきれない「法(ダルマ)」そのものであることを言っているようです。

浄土真宗の始祖である親鸞聖人は、多様に存在する大乗仏教の流派の中でも「浄土教」を選び取り、阿弥陀仏の名を称えるという信仰に専念された方ですが、その著書『教行信証(証巻)』には、

「諸仏・菩薩に二種の法身あり。一には法性法身、二には方便法身なり。」

と浄土教の先師・曇鸞の一文を引用されて、法身仏にも「法性法身」と「方便法身」の二つがあることを示されています。

 

まず「法性法身」とは、人間の認識を超えた色も形もない絶対的な真理そのもの、真如法性のさとりそのものである仏身です。しかしながら、それでは誰にも気づかれることなく、ただそこにあるだけになってしまうので、「方便法身」という姿形を現されるのだというのです。

真如法性とは悟りそのもの、ありのまま、あるがままなのだと言われても、もともとに悟っていない私たちのような常人には到底理解し難く、そのことに気付きようがありません。そこで「方便」をもって、そのはたらきのあることを私たちに知らしめようとされるのが「方便法身」だというのです。

嘘も方便などという言い方もありますが、本来的な意味でいう方便とは「手立て・手段」を表します。例えば阿弥陀仏には、絵像や木像などでかたどられたお姿や経典に描かれた物語がありますが、これらの「相(そう・かたち)」は、ダルマに保たれる「用(ゆう・はたらき)」を明らかにするために現されたものなのです。

ブッダが目覚め、気付かれたダルマ。その「はたらき」のあることを、神話的物語をもって顕現されているのが、阿弥陀仏という「方便法身」ということです。

法性法身によって、方便法身が生じます。そしてまた、方便法身によって、法性法身が現されます。この二つの法身は、本来的には同じであって、それは二つの異なるあり方をもって、一つの「ダルマ」を示すものである、というのです。

 

親鸞聖人は『唯信鈔文意』という著書に、

法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり。この一如よりかたちをあらはして、方便法身と申す御すがたをしめして」

法身というものには色も形もありません。それゆえに私たちには思いはかることもできず、言語化することもできません。ただ一つの真如よりそのかたちを現して、方便法身というすがたを私たちに示されて)

とも述べられています。

 

ブッダという存在をもって、その「はたらき」のあることを伝えようとする本来的な性質が、ダルマにはあるということでしょうか。

方便法身である阿弥陀仏の姿形やその神話的物語は、私たちを救済するために現れた、ダルマそのものの「はたらき」だということでしょうか。

歴史上実在されたといわれるゴータマ・ブッダ(釈迦仏・色身仏)が人間としての肉体をもって生きられた「伝説」によってダルマを伝えようとすることもあれば、観念上の存在であるアミダ・ブッダ(阿弥陀仏・法身仏)が浄土という世界観における「神話」によってダルマを伝えようとされることもある、ということでしょうか。

 

ダルマなくしてブッダはなく、ブッダなくしてはダルマが伝わることもなく、色身仏であっても、法身仏であっても、私たちに向けられたダルマの「はたらき」があるということでしょうか。

 

では、そもそも「ダルマ」って?

真如って? 法性って?

ありのままって? あるがままって?

 

さらに掘り下げて考えてみなければ、ブッダとは何か、仏教とは何かなんて、分かったようなことは言えなさそうです。

 

自分の腑に落ちるところまで、

自分の頭で考えてみようと思った限りは、

自分の考えの及ぶところまで、

自分なりに考えてみたいと思います。

 

 

photograph: Kenji Ishiguro