親鸞聖人86歳のお手紙である『自然法爾の事』という文章が遺されています。これは聖人が最晩年に至った浄土真宗の究極的な境地であるといわれています。ここにいま、浅学の身ながら、思うところを書き記させていただき、宗祖のお心をたどりながら、真宗の信仰の深層を探ってみたいと思います。

聖人は「自然法爾(じねんほうに)」ということについて、人間の思慮分別をはるかに超えた阿弥陀仏の本願力は、私自身のはからいをはるかに超えた「あるがままの自然のはたらき」であると説かれます。

 

 

自然(じねん)といふは 「自」はおのづからといふ 行者のはからひにあらず 「然」といふは しからしむといふことばなり しからしむといふは 行者のはからいにあらず 如来のちかひにてあるがゆゑに法爾といふ 

仏教で説かれる「自然(じねん)」とは、文明化された「人間界」に対する未開の「自然界」のように、相対的に認識される二つの現象世界の一方をいうものではなく、人間を含めたすべての縁起する全体、{ありのまま}のことをいいます。自然ということは{おのずから そうなる}ということです。

 

 

法爾といふは この如来の御ちかひなるがゆゑに しからしむるを法爾といふなり 法爾はこの御ちかひなりけるゆえに およそ行者のはからひのなきをもつて この法の徳のゆゑにしからしむといふなり すべて ひとのはじめてはからはざるなり このゆゑに 義なきを義としるべしとなり

そして「法爾」ということは、諸行無常・諸法無我という「自然法」の中に保たれている、一切の生きとし生けるものに平等に施されている功徳のはたらきが、自然と{ひとりでにそうなっていく}ということです。人間の計らいをはたらかせないことで、自然の力が自ずとはたらくのであって、自分の計らいをことさらにはたらかせないようにするのが{自然体}ということでしょう。

 

 

自然といふは もとよりしからしむるといふことばなり 弥陀仏の御ちかひの もとより行者のはからひにあらずして 南無阿弥陀仏とたのませたまひて迎えんと はからせたまひたるによりて 行者のよからんとも あしからんともおもはぬを 自然とは申すぞとききて候ふ

自然体ということは、もともとに{あるがまま}ということです。ひとがただ、自分の計らい心をなくして{南無阿弥陀仏}と称え、善悪の分別心をはたらかせることなく、そのお心におまかせしてしまうことこそが、そのままに{自然体}でいることなのだと、聖人は説かれます。

 

 

ちかひのやうは 無上仏にならしめんと誓ひたまへるなり 無上仏と申すは かたちもなくまします かたちもましませぬゆゑに 自然とは申すなり かたちましますとしめすときには 無上涅槃とは申さず かたちもましまさぬやうをしらせんとて はじめて弥陀仏と申すとぞ ききならひて候ふ

諸行無常・諸法無我という{自然法}に、本来より保たれている{願い}と、そのはたらきとしての{誓い}とは、私たちを、色も形もないままに何ものにも比べることなく、そのままにただ素晴らしい{ありのままの自然本来の力}とすることです。その本来的な自然の力、はたらきを、{他力}といい{本願力}といいます。

何ものにも比べることなく、そのままにただ素晴らしい{あるがまま}とは、悟りの境地{涅槃寂静}をいうのであり、色や形を表して見えるようなものは、このうえない涅槃の境地とはいえません。

色や形のない、比べようもなく素晴らしい{大いなる自然}のあることを、私たちに知らしめようとしていまここにあらわれる{阿弥陀仏}なのです。

 

 

弥陀仏は自然のやうをしらせん料(ため)なり

浄土の教えに説かれる「阿弥陀仏」とは、私たちは{大いなる自然のはたらき}のもとに、生かされて生きているのだということを、私たちに知らしめようとする「手立て」 なのだといえます。

{阿弥陀仏}は、キリスト教やユダヤ教やイスラム教のような一神教でいうところの「神」のような存在ではありません。{極楽浄土}とは、神の審判によって行けたり行けなかったりするような「天国」のような場所ではありません。

存在として現される「阿弥陀仏」や場所として表される「極楽浄土」は、本当は、色も形にも現せず言葉にも表しきれない{涅槃寂静}の境地を、気づきようのない私たちに、なんとかして気づかせようとする手段であり「方便(真実に導くために仮にとられる便宜的な方法)」なのです。

実存や境地としか言いようのないそれは、存在(=阿弥陀仏)や場所(=極楽浄土)としてあらわれてようやく、その{こころ}や{はたらき}のあることを、私たちに知らしめます。仏とは、「如来」という名前にもあらわされるように、真如より来たるその{あらわれ}なのだと知らされます。

(真如)ともいわれる(涅槃寂静)は、すなわち(願いの心)そのものであるがゆえに、私たちを救わずにはおられないという(誓いのはたらき)を私たちのもとへ、届けられます。(極楽)とは、サンスクリット語で「スカーヴァティー」といい、「幸福のあるところ」「幸福にみちみちてあるところ」を意味します。そして(阿弥陀)とは、「アミターバ」とも「アミターユス」ともいわれ、それはそれぞれ「無限の光」と「無限の命」を意味するものです。

(極楽浄土の阿弥陀仏)としてあらわれるそれが、(幸福のみちみちてある 永遠の光と命の願い)そのものであるなら、(南無阿弥陀仏)のお念仏としてあらわれるそれは、(真如)といわれるそのものが、私たちに呼びかける(願い)の声だと、受け取るべきでしょう。私たちはただそれを、耳を澄まして(聞く)べきなのでしょう。

「不思議」ということは 思い計ることができないからこそ(不思議)なのであって(不思議)を(不思議)として そのままに感じとることで(自然の力)をそのままに 私の(心)にいただくことにもなるのでしょう

 

 

 

この道理をこころえつるのちには この自然のことはつねに沙汰すべきにはあらざるなり つねに自然を沙汰せば なきを義とすといふことは なほ義のあるになるべし これは仏智の不思議にてあるなるべし

自然体でいることが最も大切だということを頭では分かっていても、ついはからい、ついつい頭で考えて、詮索してしまう私です。自分の力がつい入って、ついつい心や体をこわばらせてしまう私たちに、そのままに自然体で生きることをすすめる(南無阿弥陀仏)です。

 

 

おかげさまで、生かされていることに、ありがたく、生きていることをすすめて、私の声となってあらわれる(南無阿弥陀仏)です。

自然体で生きつづけることができれば、自然体で死ねるかもしれません。いつでもどこでも自然のこころと、(ひとつ)になれるのかもしれません 。そのままに(ひとつ)なのかもしれません。

ただ(信心)こそが肝要であると、あらためて知らされます。

自然の大いなる命の循環のなかに(南無阿弥陀仏)と称えながら、すべてをそのままにまかせて生きていることを、浄土の先人方は、私たちに願い、伝えようとされているのでしょう。

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