一寸法話 其の3「中道 」 |
住み慣れた故郷カピラヴァスツの城を出て、大きな希望と期待をもってひとり出家したシッダルタは、永遠の真理を求めて各地を遍歴した後、当時の文化の中心地であったマガタ国の首都「ラージャグリハ」附近に住む2人の名高い修定者を訪ねました。 修定者らの指導のもとに修業に取り組んだシッダルタは、やがて彼らの教える奥義を修得するに至りましたが、そこでの境地は自らが求めていたものにはほど遠いものであったため、やがてその地を離れることとなります。 次にシッダルタは「ナイランジャナー河」のほとりにあった「苦行林」に身を投じ、当時行われていた様々な苦行の実践を試みてみました。 そこでの苦行は、死体が遺棄された火葬場や暗闇の森の中でただ一人恐怖に耐えながら瞑想したり、ひたすらに呼吸を止めたり、長期間の断食をしたりといった、生死をかけた激しいものだったといいます。 極限までに自らの肉体をさいなむこれらの行を六年間にわたって続けた結果、シッダルタの身体は骨と皮だけにやせ衰えてしまいました。 そこでシッダルタは、身体を痛めつけることはただ徒らに自分を苦しませることであり、自分の求める永遠の真理・真の幸福に導くものではないと判断し、一切の苦行を放棄することを決断します。 苦行林を去ったシッダルタは、ナイランジャナー河の水で長い間の体の汚れを洗いおとし、近くに住む「スジャータ」という名の村娘が差し出した乳粥を飲んでやつれた身体の回復をはかり、菩提樹の樹の下で心静かに瞑想に専念する生活に入りました。 そしてついにシッダルタは、永遠の真理に目覚めて悟りをひらき「ブッダ(目覚めたる人)」となられたということです。 ときにシッダルタ三十五歳、十二月八日の夜明けの時であったとも伝えられています。 シッダルタは菩提樹の下でどのようなビジョンを得て悟りの境地に達したのか、またその体験内容はどのようなものであったのか。 後にブッダの弟子たちの記した教典にはさまざまなことが説かれていますが、実際のシッダルタの宗教体験は到底文字や言葉で表現しきれるはずのないものであり、私たちのうかがい知るところではありません。 しかし、悟りの境地に達したシッダルタにそれまでとは全く異なる新しい人生態度が立ち現れたことを、私たちは知ることができます。 シッダルタの悟りは「中道」と呼ばれる人生態度により導かれたものであり、そしてまたこの「中道」こそが、仏教の説こうとする人間の生きるべき道なのです。 シッダルタは、王宮での快楽的な生活(物質を至上視した肉体的な享楽生活)が人生の正しい生き方ではないと考えられ、出家をすることで快楽主義を捨てられました。 そして、出家後に試みた苦行林での禁欲的な生活(物質を軽視し肉体をさいなめる苦行生活)もまた、真の悟りへの道ではないと考えられ、禁欲主義も捨てられました。 そして、快楽主義と禁欲主義のどちらをも否定し、そのいずれにも片寄らない自分なりのやり方を見い出したところに、ついにシッダルタの悟りはひらかれたのです。 シッダルタの悟りの道程に見るように、極端に片寄ることを否定し、観念的なものに執われることなく、主体的にものごとに向き合い、実践的に生きる姿勢を、仏教では「中道」といいます。 仏教でいう「中道」とは、中間とかまん中とかいうような平面的な理解によるものではありません。 両極を排して真実そのものに接近しようとする、立体的な理解に基づくものなのです。 自身に振り返って考えてみると私たちは、既に用意された選択肢の中で「右だ」「左だ」などと断定して考えてみたり、「何々派」「何々主義」というような固定的なくくりの中に自分を属させて考えてみたり、何者かになりきってみたり、「当然こうあるべきだ」とされることを無意識にうのみにしたり、ただ感覚的に反発したり、しがちなように思われます。 誰の真似ごとでも無い自分なりのスタイルで、無理なく続けていけることを見つけられたら、もっと自由で自然な生き方ができるのではないでしょうか。 自分にフィットした無理のないやり方で、自分なりにがんばることを続けていけたら、少しづつでも自分の理想に近付けるのではないでしょうか。 あーでもないこーでもないと考えすぎるのではなく、他人に言われたようにして何も考えないのでもなく、自分なりのやり方を実践しながら試みていくことが、かけがえのない自分だけの人生を築いていく方法なのではないでしょうか。 苦行林を出られたシッダルタは、ひとりの村娘の差し出した乳粥を飲んで元気を取り戻し、菩提樹の下で悟りを開かれました。 ひとたび出家をした者が苦行を棄てるということもさることながら、社会の階級制度の厳しかった当時のインドにあって、階層としては低い位置にあった村娘の施しを、そのまま素直に受け入れたということは、当時の社会や宗教界にとっては画期的な出来事であったようです。 既成概念に執われることなく、信念をもって自分の人生を力強く生き抜いたシッダルタの生きる姿勢に、 いまの時代を生きる私たちが学ぶべきことは、多くあるように思えます。 |