一寸法話 其の4「自灯明 法灯明 」

菩提樹の下で悟りを開き「ブッダ(目覚めたる人)」となられたシッダルタは、その無上の喜びにしばらくの間浸っていましたが、 ついに自らが目覚めた真実を人々に伝えることを決意し「ヴァラーナシー」という地域にある「鹿野苑」と呼ばれる場所へと出かけていきました。 この土地は宗教者や学者の多く集まるところであり、シッダルタが以前身を投じていた「苦行林」での修業者たちもそこにはいました。 シッダルタは、その地で再会したかつての五人の修業仲間に対し、最初の説法を行うことにしました。
自分自身で悟りを開いたというシッダルタに最初は疑いをもって話を聞いていた五人でしたが、その威厳ある存在感と否定しようのない仏法の真実性に、やがては深く感動し、同じ「目覚め」を目指してシッダルタに帰依することとなったということです。

その後ブッダ(= シッダルタ)は伝道の旅へと各地を赴き、貧富や階級、年齢や性別の差を超えた多くの人々にその教えを説き、限りない感化を及ぼしていきました。
ブッダは、人々とのめぐり会いの場での「一期一会」のやりとりを最も大切にし、それぞれの人々がそれぞれの立場で理解しやすいように配慮して、仏法を説かれたといいます。
こうしたブッダの姿勢は「対機説法」「応病与薬」などと呼ばれています。
つまりブッダは、その都度出会った人々がどういう人で、どういう問題に悩んでいるのかを見抜いたうえで、その人それぞれに最も適切な言葉と態度をもって、その教えを説いていかれたのです。

ブッダを慕って集まってきた人々のなかには、ブッダの導きに即して修業をし、ブッダと同等の「目覚め」を経験するに至ったという人もいたようです。
これらの人々は「阿羅漢(最高の悟りを得た者)」と呼ばれました。
これはすなわち彼らもまた「ブッダ(目覚めたる人)」となられたということを意味しています。
つまりブッダの教え「仏教」とは、「仏の教え(ブッダにより説かれた教え)」であると同時に、
「仏になる教え(ブッダとなるための教え)」でもあるということなのです。

「悟り」を目指してブッダのもとに集まってきた人々は「サンガ」と呼ばれる共同生活を始めました。 国王たちや富裕な人々などがブッダに帰依し、有名な宗教的指導者たちまでもが帰依することとなったので、「サンガ」は宗教教団としての大きな発展を遂げていきました。

悟りを開かれてからの四十五年間、相手を選ばず、時や場所をも選ばず伝道を続けられたブッダでしたが、故郷「カピラヴァスツ」へと向かう旅の途中、「チュンダ」という鍛治屋のもてなした食事が原因で、疫病のような病いにかかり、激しい腹痛を訴えられ、ついに倒れてしまわれました。
自分の死期をさとられたブッダは、沙羅双樹の樹の下で横になり、沈んでいく夕陽を眺めながら、静かにその時を待たれたといいます。

偉大なる師を失うことを嘆き悲しむ弟子たちに、ブッダは最期の言葉を残されました。

「自灯明、法灯明 ・・・。
 自らを灯とし、法を灯とし、他を灯としてはいけない。
 自らを拠り所とし、法を拠り所とし、他を拠り所としてはいけない。
 みんな、おこたることなく精進しなさい。」

法とはすなわち、ブッダの説かれた真実の教え「仏法」のことをいいます。
仏法とは、人間の思考がつくり出すような創作的なものではなく、今も昔もどの場所でも、
常に真理として在りつづける「自然の法則」なのです。
ブッダが「悟り」のなかで目覚め、気付かれた、「永遠の真実」なのです。

「自分自身を大切にして、自分だけの人生を力強く生き抜きなさい。
 自分の人生を、自分以外のものにゆだねたり、まかせたりしてはいけません。
 人生とは自分自身で切り開き、自分自身で築いていくべきものです。
 けれども人間とは、いつも迷いのなかにあり、いつも不安定にゆれ動いているものでもあります。
 自分という存在だって、必ずしも確かに信用しきれるものではありません。
 仏法は、うつろいやすいこの世にありながらも、永遠不滅の真実です。
 仏法の灯は、いつでもどこでも消えることなく、あなたの存在を照らしています。
 仏法をこころの拠り所として、あなた自身の人生を、どうか力強く生き抜いてください。」

仏教とは、「仏の教え(ブッダにより説かれた教え)」ではありますが、ブッダ(=シッダルタ)の肉体がこの世から無くなって、二千年以上の時を経た現在でも、確かに伝えられ在り続けているものです。
仏教とは、シッダルタ(=ブッダ)というカリスマに対する盲目的な信仰ではなく、あくまでも「仏法という教え(ブッダの説かれた真実の教え)」なのであり、それはまた「仏になる教え(仏となるための教え)」でもあるのです。
そしてそれは「仏道(真実に目覚め、気付くための生き方)」ともいえるものなのです。

ブッダは息をひきとられる最期の時まで、鍛治屋のチュンダが後になってそのことで悩むことがないようにと、心を配り、気づかわれていたそうです。
ときにシッダルタ八十歳、二月十五日夜半の入滅であったとも伝えられています。

ブッダがその生涯をかけて、この世に生きるすべてのものたちに対して説かれた教え、「仏法」については、 次章より記していきたいと思っています。




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