一寸法話 其の2「四門出遊 」

シャカ族の王子としてこの世に生まれた「ゴータマ・シッダルタ」は、誕生後わずか七日間で生母「マーヤー」と死別し、その後は乳母によって育てられました。 父王「シュッドーダナ」の愛情を一身にあつめて幼年時代を過ごし、少年の頃から将来の王たるべく文武諸芸を学んだシッダルタは、恵まれた環境のなかで何一つ不自由なく成長しましたが、特別に感受性が強く物事を深く思索する性格であったため、一人で瞑想にふける傾向が強かったといわれています。
当時のインドには「沙門(シャモン)」と呼ばれる修業者たちがいて、彼らは一切の所有を持たずに厳しい苦行や瞑想の生活を送っていました。 青年となり人生の問題に悩みを深めるようになったシッダルタは、王位継承者としての将来よりも、次第にそうした「出家者」としての生き方を志望するようになっていったといいます。
そんなシッダルタの想いを見取っていた父王は、高貴で美しい「ヤショーダラー」という妃を迎えさせたり、素晴らしく立派な宮殿を設けたり、大勢の女官や召し使いをつけたりして、さまざまな歓楽的な生活をすすめ、シッダルタを思いとどまらせようとしました。 結婚後十年ほどして「ラーフラ」という一子にも恵まれ、世俗的にみるならばこの上のない幸せのなかにいるはずのシッダルタでしたが、それでも人生に対する煩悶は深まるばかりであり、真実の幸福とは何かと悩み続けられたということです。 そしてついにシッダルタは二十九歳のとき、出家の道に入ることを決意し、城を出られたと伝えられています。

王族としての何一つ不自由のない暮らしをしていたシッダルタが、なぜ妻子や家族への愛の絆を断ち切り、なぜ社会的地位や名誉や財産をふり捨ててまで、出家という人生の大転換を決意したのか?
シッダルタが出家する間近の頃のエピソードとして「四門出遊」という物語が伝えられています。


ある日のこと、シッダルタは世間の様子を見に出かけようと従者を伴い東の門から城の外へ出ていきました。東の門を出て間もなく、白髪の老人がよろよろと杖にすがって歩いているのを見ました。 シッダルタは不快な思いになり、すぐに城へと引き返していきました。
そしてまたある日のこと、今度は南の門から城外へと出かけてみたところ、門を出てまもなくして、疫病にかかって倒れている酷い姿をした病人を目にしました。 シッダルタは不安な思いにかられて、今度もまた、すぐに城へと引き返していきました。
しばらくしてまたある日、今度は西の門から出かけたところ、亡くなった人の遺体を火葬しているところに出くわしました。 ショックを受けたシッダルタはがっくりとして、城へと戻っていきました。
城内でのシッダルタの生活では、まわりにいる人たちは皆、若く美しく健康で溌溂とした人たちばかりだったので、それまでには老人や病人や死人を見ることなどなかったのです。
そしてしばらくしたまたある日、残るひとつの北門から外へ出てみたところ、そこでシッダルタの前に現れたのが、「出家者(沙門)」だったのです。 シッダルタはその威厳のある堂々とした姿に胸を打たれ、これこそが自分進むべき道であると決意して城へと帰っていったのでした。


この物語に描かれる東西南北の四つの門は、人生における四つの苦相 - 老いの苦しみ、病いの苦しみ、死の苦しみ、そして生きることそのものの苦しみを示しているといわれています。 シッダルタは、東門での老人との出会いで「若さ・青春」ということを、南門での病人との出会いでは「健康・安全」ということを、そして西門での出会いでは「生存・存在」ということを、それらを自らのこととして深く厳しく省みられました。 そして北門での出家者との出会いによって、生きることとは即ち「苦しみ」であるという人生の実相を直視したうえで、一時的なまやかしではない真実の幸福を求めるために「出家」という生き方を選びとられたのです。

老人、病人、死人の姿を目にして、逃げるようにして城の中へと戻っていったシッダルタの姿は、そのまま現実にある私たちの姿を映し出しているようにも思われます。 現実から目を背け、いつまでも若く健康で生きていたいと願いながら、日々を暮らしている私たちの姿です。楽しく、明るく、面白いことばかりを追い求めて、嫌なことはできるだけ避けて通ろうとしたがる私たちの姿です。
私たちがシッダルタの立場ならば最初に門を出たところで、「こんなに嫌なところならば城の外など出ない方がましだ」と、城内の生活にひきこもってしまうに違いありません。

人生は苦であるといっても、もちろん人生には楽しいことや明るいことや面白いことだってたくさんあります。 しかしそれらは必ず一時的なものであって永続的なものではありません。 良いこともあれば必ず嫌なことだってあるのが現実なのです。

いまは若さに満ち溢れていたとしても、刻一刻と年をとって老いへと近付いています。
いまは元気で健康であったとしても、いつ病気になって動けなくなるかはわかりません。
いまは幸せでいられたとしても、それは些細なことで一瞬にして失われてしまうかもしれません。
今日はこうして生きていられても、明日も生きていられるという保証はどこにもありません。

老いの苦しみ、病いの苦しみ、死の苦しみ、そして生きることそのものの苦しみ。
「生老病死」という現実は、全てのひとに共通する、全てのひとに等しく与えられた人生の真実です。
「当たり前」だと思っている「いまここにいる自分」は、常に不安定で、常に変化し続けています。
「生老病死」の現実を直視したならば、「当たり前」だと思っている「いまここにいる自分」は、本当は「有り難い(そう有るのが難しい)」存在なのだと思わざるを得ません。

「いまここにいる自分」を「有り難い」と実感できたならば、これまでとは質の異なる「よろこび」が自分の人生に立ち現れてくるかもしれません。 「苦しみ」こそが「当たり前」なことなのだと実感できたならば、どれだけ困難の多い人生であっても、それを乗り越えていけるだけの「力強さ」が人生に立ち現れてくるかもしれません。

人生を直視し、それに立ち向かっていったシッダルタの「生きる勇気」をこそ、
いま私たちは見習わなければいけないのだと、私は思うのです。



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