一寸法話 其の1「天上天下唯我独尊 」

のちに「ブッダ(目覚めたる人)」としてその教えを広く世界に伝えることとなる「ゴータマ・シッダルタ」は、現在のネパール附近のヒマラヤ山脈に位置する「カピラヴァスツ」という地域にあった「シャカ」という小さな種族の王「シュッドーダナ」とその妃「マーヤー」との間の一子として誕生されました。
聖母マーヤーは出産の時期が近づいたある日のこと、故郷に帰ってお産をするために旅に出られましたが、その道中の「ルンビニー」という花園での休憩の時に突然産気がおとずれ、シッダルタを出産されたといわれています。 それはときに、四月八日であったとも伝えられています。


ブッダの誕生に関しては「四方七歩の宣言」といわれる、ひとつの有名な伝説があります。
これは、ブッダは生まれると同時に七歩あゆみ出し、右手で天を左手で地を指差し、東西南北の四方に向かって「天上天下唯我独尊」と声に出されたというものです。
生まれたばかりの赤ん坊が突然歩き出すということも、突然言葉を話し出すということも、まず現実にはあり得ないことで、誰も信じる者などいないはずです。 しかし長い年月を経て、現代にいたるまでこの話が語り継がれ伝えられてきたということは、これが事実か事実でないかなどとは関係なく、仏教が伝えるべき「メッセージ」がこの「物語」に託されているからなのだと思われます。
メッセージはこう読み解かれます。

まず生まれてすぐに七歩あゆまれたということは、苦悩に満ちた六つの世界「六道界」を
ブッダは生きながらにして超越した存在であったということをあらわしています。
六道界とは仏教の世界観のひとつであって、
1.地獄(苦しみの極まった世界)
2.餓鬼(常に飢餓に悩まされる世界)
3.畜生(鳥獣虫魚としての生存状態)
4.修羅(絶えず対立し争う者としての生存状態)
5.人間(人間としての生存状態)
6.天上(すぐれた楽を受ける喜悦の世界) の六つの世界をいいます。
これらの世界はなにも、私たちが死んだ後に行くと考えられているような「あの世」の世界をいっているわけではありません。 まさに私たちが生きている「いまここの世界」をあらわしているのだと考えるべきなのです。

地獄のような苦しみの状況が、この世には現実のこととしてあります。
飢えや乾きに苦しめられている人々が、この世には確かに存在しています。
欲望のままに理性を失い行動する人や、人間らしい感情を失い無気力で無感動になっている人もいます。
他人を蹴落としてでも自分のプライドを満たそうとする人だっています。
私たちの生きている世界や私たちの心は、常に不安定に動き続け変化し続けているので、どれだけ今は人間らしい気持ちでいられたとしても、どれだけ今は天にも昇るような楽しい気分でいられたとしても、 次の瞬間には、迷いに満ちた苦しみの情況へと転落しているかもしれないのです。

六道界とは、まさにいま私たちが生きているこの世界や、私たちの心の状態のことをいっているのであり、人間は一瞬一瞬生まれ変わりながら、この苦悩と迷いに満ちた六道界を輪廻し続けているのだと、仏教では考えられているのです。
単純に「世界はひとつ」と考えがちな私たちですが、ひとりひとりの人間にひとつひとつの「いまここの世界」が存在していて、それらはそれぞれに一時として止まることなく変化を繰り返しているのだと、仏教では教えられているのです。

すなわち「七歩あゆむ」ということは、ブッダは六道界を超越した特別な存在であるということをあらわしているのであり、人間の姿をもってこの世界に現れたけれども、人間の持つ根源的な苦悩や迷いを、生きながらにして乗り越えることのできた存在であったということを意味しているのです。


次に、ブッダが四方に向かわれたということは、直接的には東西南北の四つの方角を指していますが、その意味は「空間的にあますところがない」ということをあらわしています。
私たち人間存在はどうしてもこの肉体から離れることができず、その意識はあまりにも狭く限定されています。 しかしブッダは、細部から全体に至るまでのあらゆる空間のすべてを見渡すことができ、生きとし生けるもののすべてを分け隔てなく平等に見つめていたということなのです。

すなわち「四方に向かう」ということは、ブッダの限りなく広大で平等な視野から外れる存在は、何ひとつ無かったという意味なのです。


生まれてすぐに七歩歩み出し、東西南北の四方に向かわれたブッダは、
右手で天を左手で地を指差し、こう宣言されました。
「天上天下唯我独尊 三界皆苦我当安之・・・。生きているかぎり苦しみや悩みから逃れられないでいるこの世のすべての者たちに、真の安らぎを与えようとして、私はこの世に生まれてきました。 これは私の使命であり、このためだけに私は生まれてきました。この世界でただ一人の尊い存在として、私は生まれてきました。」

ブッダの教え「仏教」とは、苦しみや悩みを持たずにはいられない、迷いながらにしか生きることのできない、そういう根源的な性質を持つすべての人間存在に対し、全く平等に開かれた「安らぎの教え」なのです。 そしてそれは、この世で悟りの境地を得るに至ったブッダが、その全存在をかけて私たちに伝えようとする「真実の教え」なのです。
「四方七歩の宣言」はそうしたメッセージを、暗に私たちに伝えようとしているのです。


しかしながら、私たちの通常の感覚では「天上天下唯我独尊」という言葉が、どこか独善的で傲慢な言葉であるようにも聞こえるかもしれません。 自己の我執を離れて悟りの境地に達したといわれるブッダが、なぜ殊更に「自分」のことを言ったのだろうとも思われるかもしれません。
しかしこの言葉には、ブッダが私たち一人一人に、直接向き合い語りかけようとする、ある「メッセージ」が託されているように、私には思われるのです。


空を見上げても、地上のすべてを見渡しても、「私」という存在は、まさに「いまここ」にしかありません。 他人を羨ましがってみても、自分のことを嫌に思ってみても、どうしようもなく「私」は「私」でしかありえません。 こうしてこの世に命を与えられ、生きているかぎりは、自分の全存在を受け入れ、自分を大切に思い、その命を最期まで全うしなければいけません。

自分自身を尊いと思う気持ちがなければ、自分以外のものを尊く思うことも、できないはずです。
自分の命を大切にできない人が、自分以外の命を大切にできることはないはずです。
まずは自分自身の命の尊さに気付くべきです。 まずはそこから始めるべきなのです。



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