④ 他 力 本 願




[ 三不三信の教え ]

親鸞聖人は『 教行信証( 正信偈 )』のなかで、道綽禅師〔562-645〕の教えを引いて、
「 三不三信 」という、( 信 )の在り方について説かれています。


まず「 三不信 」とは、

① 不淳心 ... 煩悩のまじっている濁った自意識
② 不一心 ... 散り乱れて一つにならない自意識
③ 不相続心 ... 現れては消える長続きしない自意識

の3つの心の状態をいいます。

自らの考えや行いを信じて自己努力によって何かを得ようとする「 自力 」の行いでは、
どうしてもこの「 三不信 」に陥ってしまうことを、免れません。

私たちが何かを強く信じようとしても、 大体は自分勝手に都合よくそれを捉えて、
信じてみたり、かと思えば、疑ってみたり、何か他に気になることがでてくれば、
いままで信じていたはずのこともけろっと忘れてしまっているような、

そんないいかげんな信じ方しかできないのが、
私たち普通の人間の、普通の姿ではないでしょうか。


そんな「 三不信 」に対する( 三信 )とは、

① 淳心 ... 純粋で真っ直ぐなまじりけのない心
② 一心 ... ふたごころなく乱れることのない一つの心
③ 相続心 ... 一貫して持続して失われることのない心

の3つをいい、これが正しい( 信心 )の在り方であると説かれます。


私たちがどんなに集中して、注意を払って、一所懸命に自己努力したとしても、
淳心・一心・相続心 の( 三信 )を自分のものにすることなど、到底叶わないことです。

ふらふらとして移り気な私たちの心は、とても( 三信 )とは言いがたいものです。
自分自身の心のありようを正直に見つめてみるならば、「 三不信 」そのものです。


浄土真宗で説かれる「 他力 」とは、
私たちの「 自力の三不信 」を超越してある( 三信の心 )そのものです。

浄土真宗の「 他力 」とは、生きとし生けるすべてのものを救い摂ろうとする、
阿弥陀仏の願いのこころ、そのはたらき、すなわち( 本願力 )のことをいいます。



[ 浄土真宗本来の他力本願 ]

「 他力本願 」という言葉は、
「 他人の力をあてにする 」とか「 他人まかせ 」などという意味で用いられることがあり、
 確かに現代の辞書のなかでは、そうした意味も間違っていないことに、なってはいます。


けれども本来の浄土真宗の語源でいう( 他力本願 )とは、
自分と他者とを二つに分けての「 他者の力 」をいっているのではなく、

相対性を超えた、人知の及ばない、自己中心性を超越した( 仏の力 )をいっているのです。


自分の力で善行を積んで、自己努力によって悟ろうとするのは「 自力 」のはからいであり、
それは自分という[ 我 ]にこだわって「 自意識 」にとらわれている状態です。


そんな「 自力 」を遥かに超えて、我々を包み込むようにして悠然としてあるのが、

一切のものを救おうとする分け隔てなきこころ ( 大慈悲心 )であり、

そのはたらきが、阿弥陀仏による ( 他力 )であり ( 本願力 )なのです。



阿弥陀仏の( 仏心 )が、いまここの私に届き至り、それを信じるこころ( 信心 )となって、

私たちのもとに、只今の( 南 無 阿 弥 陀 仏 )となって、あらわれてきます。




[ 法然上人から親鸞聖人に伝わる信心 ]


自力で善行が積めない者であっても、阿弥陀仏のお慈悲によって、極楽浄土に往生できる。

と考えられた法然上人は、

阿弥陀仏の救いを信じて、ただ念仏をとなえるだけでよい。

という、専修念仏の( 他力 )の教えを説かれました。


そして親鸞聖人は、その教えをさらに深められ、

極楽浄土に往生するために、条件や手段として念仏をとなえることは、自力の計らいである。

阿弥陀仏の本願力が、いまここにもとどけられていることを、ただ有難く信じるのがいい。

そうすることで、自ずと仏に導かれ、 救われる。 どんなものでも往生できる。


と考えられたのです。


そしてついには、

いまわたしが念仏を称えているのも、すべてを本願力にゆだねる( 信心 )を、
極楽浄土の阿弥陀仏からの( 他力 )によって、いただいているからこそなのだ。

正しく信心をいただいた先人方との( 出遇い )によって
私にまで伝わってきた信心ひとつで ( 他力 )にまかせて ( 往生 )するのだ


という境地にまで、至られます。




[ 教行信証の執筆 ]

聖人は、関東時代より書き続けられた大著『 顕浄土真実教行証文類 』の補訂を、
帰洛後も、最晩年まで、生涯をかけて続けられました。

浄土真宗の根本聖典として『 教行信証 』という略称で呼ばれるこの書物は、
浄土三部経( 無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経 )といった経典や、
インド・中国の高僧方のさまざまな論書からの引用を整理して、
独自の解釈で浄土の教えをまとめられた大作です。

ひとびとに対しては、

ただほれぼれと阿弥陀仏のご恩に感謝し、ただ南無阿弥陀仏と心から称えるだけでいい。

と説かれた聖人でしたが、

( 南 無 阿 弥 陀 仏 )の六字の名号には、仏教の開祖である釈尊によって説かれ、
7人の高僧方によって伝えられた正統な「 いわれ 」のあることを、

自らの生涯をかけて探求された知識を整理し、文章にして立証することで、
聖人は後世にまで、正しくそれを伝えようとされたのです。



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