平安時代中期の天台宗の高僧「 源信和尚〔942-1017〕」は、
インド・中国を渡って日本に至り着いた( 浄土往生の教え )を、
『 往生要集 』という書物にして、はじめてこの国に説かれた方です。
仏教にはいろいろな教えがさまざまなかたちで説かれているけれども、
私たちのような、末法の時代に生まれ、迷いの世界に生きている者たちは、
阿弥陀仏の極楽浄土に往生して、仏に成らせていただかないと、
人間として生まれてきたことの意味がないのだと、はっきりとそう説かれた方です。
源信和尚によって開かれた「 日本浄土教 」の流れの先に、
法然上人や親鸞聖人の称名念仏の教えが展開していくわけですが、
では、果たして私たちは、浄土教に説かれる「 阿弥陀仏 」や「 極楽浄土 」を、
いかなるものとして解釈し、「 往生 」について捉えていけばよいのでしょうか。
その手掛かりとして、仏教の根本原理として説かれる「 四法印 」に立ち返り、
まずはこれを考察することから、浄土の教えとは何かについて、探求してみたいと思います。
[ 仏教の根本原理・四法印 ]
開祖・釈尊によって約2500年前のインドで説かれた仏教が、
永い時間を経て、多くの民族や国家を超えながら拡大発展していくなかで、
多くの宗旨や宗派が生まれて、さまざまに展開しながらも、
仏教としての一貫した根本原理が、それらに通して見られるといわれます。
仏教を名乗って説かれる教えが、本当に仏教なのか、
そうではないのかを判断するための基準として、
仏法の目印とされるのが、以下の四つの「 法印 」です。
⑴ 諸行無常( すべてのものごとは 常に移り変わっていく )
⑵ 諸法無我( すべてのものごとは 固定的な実体としては無い )
⑶ 一切皆苦( 思うようにはいかないゆえに この世は苦である )
⑷ 涅槃寂静( 苦しみのない 安楽の境地がある )
[ 諸行無常 ]
まず最初の「 諸行無常 」とは、一切の諸々の現象は、
常に消滅変化して、一瞬としてとどまることがないという原理です。
あるがままに私たちの世界を見回してみても、
すべてのものごとが変化しているのは自明のことです。
夜空にきらめく星も万有引力の法則にのっとって運行し続けていますし、
庭先の草木も、根をはり、芽を出し、春夏秋冬の移ろいに変化し続けています。
そこにある大きな庭石も、永年の雨風によって少しずつ形を変えています。
私たち人間の肉体の細胞も、常に新陳代謝を繰り返していて、
7年もすれば細胞が全部入れ替わると言われています。
物質面だけではなく精神面においても同様で、
私たちの心は、常に状況の変化とともに移り変わっていくものであるし、
私たち一人一人の人生も、一瞬一瞬の変化のなかにあることは、
誰にも否定できないことでしょう。
[ 諸法無我 ]
次に説かれる「 諸法無我 」とは、
世間の「 諸行無常 」を細やかに観察することによって導きだされる原理であり、
すべてには、固定的な実体としての[ 我 ]というものがないという原理です。
すべてのものごとは「 原因( 因 )」と「 条件( 縁 )」によって生じる
「 結果( 果 )」の連続にあるという「 因果律 」は、自然界に厳然としてある法則です。
( 果 )はまた、( 因 )や( 縁 )となって、さらなる( 果 )を生み、
( 因 と 縁 と 果 )は、止まることなく、常に変化しながら関わりあい、
関係しながら変わっていく、すべては関係性のなかにあります。
すべてのものごとは、( 縁 )によって生起している( 現象 )なのです。
何の影響を受けることもなく、固定的な実体として存在できるような[ 我 ]というものは、
ただひとつとしてありえない。 すべては( 無我 )なのです。
釈尊以前のインドの哲学者たちは、人間の中には不生不滅の固定的実体があるはずだと考え、
それをア-トマン[ 我 ]と名づけていました。
ア-トマン[ 我 ]とは、単独で成り立ち、決して変化しない存在のことをいって、
自分自身の全体を支配している、固定的実体をいいます。
けれども「 諸行無常 」の原理をあきらかにして、世界の実相を明らかにして観られた釈尊は、
このア-トマン[ 我 ]の思想を根底からくつがえして、
因果律( 縁起の道理 )による「 諸法無我 」の原理を、解き明かされました。
私たちが[ 存在 ]として認識するそれは、
常に何かと関わりあい、変化している「 現象 」でしかないのです。
何ものにも関係なく独立して、一つの[ 我 ]として存在し続けられるということは、
一切においてありえないことなのです。
これらの仏教原理に照らしてみるならば、「 極楽浄土 」も「 阿弥陀仏 」も、
固定的な実体としてある[ 我 ]のような存在として、それが説かれているわけではないことが知らされます。
[ 一切皆苦 ]
次に示される「 一切皆苦 」には、諸行無常、諸法無我のこの世の中において、
人生は誰の思い通りにもなっていない、という現実が説かれます。
移り変わって当然であるはずのことを、変わってほしくないと私たちは思っています。
関わり合いのなかにあるのだから、自分の思いのままに物事が運ぶということは
決してありえません。 自分の思いは、なかなか末通らないものです。
けれどもその思い通りにならないことを、
自分の思い通りにしたいと思って固執することが、私たちの心を苦しめます。
人間には、私は私のままで変わらずにいたいと思う、
ずっとこのままで生きていたいと思う、根源的な生存の欲求があるようです。
永遠不変の固定的な実体が、私たちの中にあるかのように思う執着が、
一時として止まることなく変化しながら存在する私たちに、惑いの心をおこさせます。
人間として生まれるということは、やがては老いて、そして病いになり、
いずれは死ぬということであると、なかなか受け入れることのできない私たちにとって、
人間としての[ 生老病死 ]を受け入れられないままで生きているということは、
そのままに、自分の思い通りにならない「 苦しみ 」を生きているということにもなります。
諸行は無常であることを自覚することができず、諸法は無我であることを無視しようとして、
自分一人の力で自分が成り立っているかのように思い込みがちな私たちは、
人間が根源的に持つ苦しみを、それが苦しみであると知ることができないほどに、
深い迷いのなかに沈没しています。
私たち人間のそれぞれが、思い思いに思い込みを生きながら、
自分の思うように生きたいと願い、けれども誰の思い通りになることなく、
迷い苦しむこの世界を、仏教では[ 娑婆 ]といって認識します。
[ 涅槃寂静 ]
けれどもまた、そんな逃れがたい「 娑婆世界 」を超越した境地のあることを、
最後の法印「 涅槃寂静 」には、仏教の根本命題として説かれます。
「 涅槃 」とは、釈尊が気づき、目覚められた悟りの境地であり、
サンスクリット語で「 ニルヴァーナ( 煩悩の吹き消されている状態 )」といわれます。
この( 涅槃 )のあることを説かなければ、仏教が真実の宗教として、
人々を苦しみから救済するものにはなりません。
苦しみのまったく無い、心安らかな( 寂静 )の境地のあることを、
釈尊は気づき、目覚められ、それを伝えられたところから、仏教は始まったのです。
釈尊の導きによってその修行法を実践した仏弟子たちが、
釈尊に同じく( 涅槃寂静 )の境地に入ることのできた時代を「 正法の時代 」といいます。
釈尊の滅後数百年は、釈尊の手引きによって悟られた直弟子方が、
そのまたお弟子方を正しく手引きして、( 涅槃寂静 )へと導かれていたといわれます。
この時代には、釈尊の教えは韻文にして音楽のようなかたちで口承されていたようで、
文字として書き残すことは、教えを固定化することであり、仏法に反することであるとして、
あえてそれをすることは避けられていたといわれます。
釈尊滅後500年を過ぎて、その教えが経典や論註の形で文字化して、
体系化されていった時代を、「 像法の時代 」といいます。
七高僧の第一祖として挙げられる南インドの「 龍樹菩薩〔150-200年頃〕」は、
釈尊が説かれた縁起の教えを、( 空 )の論理として組み立てられ、それを書物にされました。
本来は文字や文章として固定化することのできない( 涅槃寂静 )の境地を、
それが忘れられ、失われることのないように、概念や言語として仮に表して遺すことで、
後世へと確かに伝承しようとされたのです。
仏教が大きく世界に向けて展開されるなかで形成された「 浄土教 」は、
釈尊滅後1500年から2000年を過ぎて、
いよいよ悟りの実現と継承が困難になってしまった「 末法の時代 」のために、
釈尊の教えを正しく聞いて、それに深く気づかれた先人方によって、
( 浄土往生 )の教えとしてあらわされたものです。
浄土教に説かれる( 極楽浄土 )そして( 阿弥陀仏 )は、仏教の根本命題である( 涅槃寂静 )が、概念や表象というようなかたちをとってあらわれて、
私たちに知らしめられているのだと、見るべきでしょう。
阿弥陀仏の極楽浄土に( 往生 )するということは、
苦しみの世界から( 解脱 )して、
安楽信心、涅槃寂静の( 境地 )に入ることを、
そう表現されているのだと、見るべきでしょう。
形も無く、言いあらわしようも無いそのことの、それでも確かにあることを、
求めないではいられない、 伝えないではいられない、 願わないではいられない、
分け隔ての無いこころのあることを、 その( 心 )のあることを、
只今の末法の時代にも ( 南 無 阿 弥 陀 仏 )は、伝えようとしています。
>>> ⑥ 自 然 法 爾
>>> 『 浄土真宗の心 親鸞聖人の願い 』目次