② 自 信 教 人 信




[ 越後での流人生活に育まれる信心 ]

京都から遠く離れた僻地である越後に配流された聖人を迎えたものは、
荒波の日本海と厳しい雪国、北陸の自然。

そして、そのなかで必死に生きる漁夫や農夫たちとの土着の生活であり、
都育ちの知識人である聖人にとっては、過酷な流人生活だったことが偲ばれます。

けれどもこの北陸への配流の経験こそが、苦しみに生きる人々を救うための仏教として
浄土真宗をこの世に結実させる、決定的な要因となったことに違いありません。

流人としての聖人は、師匠も、弟子も、学閥も、国家権力の庇護もない場所で、
これまでの仏教の学びを、家族や市井の人々とともに暮らす実生活のなかで、
実践的な在家仏教として、深めていかれたのだと思われます。



[ 42歳で関東へ移動し 布教伝道 ]

越後に流されて4年目にして、聖人は流罪を赦されます。
けれども、生まれたばかりの幼い子供がいたこともあって、
すぐには帰京することができず、そうしているうちに、
京都に戻られていた法然上人が、80歳で往生されたという知らせを受けます。

教えをいただく師のいない京都へ帰る必要のなくなった聖人は、
しばらくは越後にとどまり生活されますが、42歳のときに家族をともなって、
新天地である関東へと、念仏伝道の旅に出られます。


鎌倉幕府が開かれてまもない関東の土地は、
いまだ念仏の教えが広まっていない未開拓の地域でしたが、
聖人自身が民衆と同じ立場になって説かれる明解な教えは、
圧倒的な支持をもって受け入れられ、多くの人々の間に広まっていくのに、
それほどの時間はかかりませんでした。

権力の保護下にあるような国家仏教から離脱して、
独立独歩で在家仏教の道を歩まれた聖人は、
今でいう茨城県にある常陸の稲田という場所を拠点として、
およそ20年間に渡って、関東での布教生活を送られました。

その足跡は、北は奥州、南は相模におよぶ、関東一円の広範囲に渡っており、
一つの場所にとどまることのない伝道の旅を、日々の生活とされていたようです。

布教伝道にあたっては一寺を建立することもなく、
もともと各地の村落のなかにあった如来堂や太子堂などの辻堂を活動場所として利用し、
礼拝の対象には自筆の名号の掛け軸を、ご本尊として用いられたといわれています。

東国の土地で親鸞聖人の教化の対象となったのは、
ほとんどが耕作農民や下人、百姓といった下層階級の民衆でしたが、

地方武士や豪族といった社会的地位にあり、教養のある層にも、
その教えは広く受け入れられていました。

そうした地域の有力者が中心となり、各地の村落共同体を基盤として、
門徒( 浄土真宗の信者 )の組織が、自然発生的に大きく広がって形成されていきます。



[ 自信教人信の教え ]

宗教の布教活動というと、無理矢理人を言いくるめて勧誘しようとしたり、
思想や価値観や、果ては物品までも押し付けてくるような、
そんな押し付けがましいようなイメージをもたれることもあるかと思います。

通常一般的に「 信仰 」という言葉を聞くと、盲目的に何かを信じたり、
熱狂的に何かを拝んだりするようなことを、連想されるかもしれません。


しかしながら、親鸞聖人の浄土真宗は、中国の善導大師〔613-681〕のお言葉よりいただいた

自信教人信( みづから信じ 人を教えて 信じせしむる )

というお言葉を、その実践活動の指針とするものです。


人に教えて信じさせるというと、
どこか独善的で一方的な言い方に聞こえるかもしれませんが、

この「 自信教人信 」の言葉で示される「 信 」の語源は、
サンスクリット語の「 プラサーダ 」という言葉を訳したものであり、

プラサーダとは「 心をしずめる 」「 清らかな心にする 」「 濁った心を浄化する 」
といった、聖なる( はたらき )を、意味するものです。

そしてそれは、( 静かに澄み切った明るく軽やかな心境 )を表現する言葉であり、
それはまた、「 真実( まこと )」という大切な意味をあらわす言葉でもあります。

聖人が「 自信教人信 」の文にあらわされたのは、まさしくこの( 信 )のこころであり、
先人より仏の教えを聞くことで賜り授かった( 仏心 )を、
この一文字にあらわされていることが知らされます。


聖人がその生涯において一貫して守られた「 自信教人信 」の信念は、
信仰心を押し付けて多くの信者を自分の配下に治めようとするような[ 狂信的布教者 ]や、
カリスマにただ追従してその教えを信じ込んで疑わないような[ 妄信的信者 ]を、
厳しく戒められているものです。


真実の信心とは、心から心へと、自然に伝わる心であり、

それは( 以 心 伝 心 )といえるものです。


師である法然上人から教え授かって、自分も心から信じるようになった念仏の教えを、
そのままに縁ある人々にも教え伝えて、その( 真心 )を、信じてほしい。

そうして、仏の教えを聞くことによって得られる( 安心 )を、
自らのものとして、そしてそれをまた、他の人々にも伝えていってほしい。

一切の人々に向けられた真実の願いの心が( 自信教人信 )のお言葉に、
そのままに込められています。




[ 御同朋 御同行 ]

親鸞聖人のお弟子の一人であった唯円という方は、
聖人の語られたお言葉を『 歎異抄 』という文章のなかに書きのこされていますが、
そのなかで聖人は「 親鸞は弟子一人も持たず 」という言葉を語られています。

聖人の晩年には東国一円に数万人にも及ぶ念仏の信者がいて、
聖人の近くには6、70人の門弟がいたという記録があるので、
実際には多くの人々が、親鸞聖人を師として帰依していたはずです。

けれども聖人は「 自分には弟子など一人もいない 」といわれるのです。

これは何も、謙遜していっているような言葉だったり、
無責任な態度から出てくるような言葉では、もちろんありません。



聖人から直接教えを授かった有力な門弟のなかには、
自分を中心として門徒の組織を強力に拡大化しようとして、
互いにその勢力を競い合うような状況も、当時にはあったようです。

俗世での我欲を満たすための手段として、
念仏の教えを利用しようとするかのような振る舞いを、聖人は厳しく戒められました。


自分自身が考え出して作り上げた教えで、人を自分の信者にしたというのなら、
我が弟子ともいえるかもしれないけれども、

南無阿弥陀仏のお念仏からいただいた( 信心 )によって、
いま有り難くしてある私たちのご縁なのだから、

他者を弟子として所有しているかのように考えることは大変な間違いであり、
ただ仏への恩と、それを伝えてくれた師への恩を、深く知るべきだと、

聖人は『 歎異抄 』に語られています。


同じ信心をいただいて( 南 無 阿 弥 陀 仏 )のお念仏を称える人を、
「 御同行(おんどうぎょう) 」と呼び、

同じ信心の友となり( 南 無 阿 弥 陀 仏 )のお念仏を称える人を、
「 御同朋(おんどうぼう) 」呼び、

互いの人格を敬いながら、( 南 無 阿 弥 陀 仏 )と称えて生きる、念仏者の共同体を、
聖人は( 御同朋 御同行 )と呼ばれて、大切にされました。



[ 和讃のこころ ]

お念仏の教えを聞きにやってくる人々を、聖人は誰でも等しく迎え入れ、
膝を交えて語り合われたといいます。

いまに伝わる聖人の「 和讃( わさん )」は、仏の徳や高僧方を讃える七五調の詩歌で、
仏教の難解な教えを、誰にでもわかりやすく、 口ずさみやすくして仕上げられたものです。

聖人は500首を超えるほどに、生涯にわたって和讃を創作されたといわれています。

文字も読めない農民たちには、念仏の心を謡(うた)にして、
一緒に田植えを手伝いながら、ともに唄われたという伝説もあります。

決して偉ぶることなく人々に寄り添い、かみくだいて教えを説かれ、
悟りきったような振る舞いを遠ざけて、愚直なまでに人間らしく、
一人のただの人間として、人々と共に念仏を称え、人々と共に生きる。

親鸞聖人を慕う人々が、そのひととなりに自然と集まって、
出遇いを慶ぶ( 御同朋 御同行 )のご縁が、大きく広がっていったことと思われます。



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