私たちは人間として生まれて、生きているわけですが、
人間はどうしても二つに分けて認識しようとする習性がありますから、
どうしても、生があれば、死があると、考えるようになっています。

生まれたら、死ななければいけない。

いまは生きているけど、いつかは死ななければいけない。

人間がそう考えてしまう限り、自分の命に限りがあるのは、仕方がないことです。


けれどもどうでしょう。

この世界に私たちが生まれてきたのは、お父さんとお母さん、
この二人のひとが出会ったことで、命と命のあいだに、ひとつの命として生まれてきたのです。

命と命のつながりは、両親、両祖父母、両曾祖父母、そのまた先にはご先祖様、
ずうっと先のご先祖様といったところまで、永遠にさかのぼって、永遠につながっていきます。

ある日突然、自分ひとりでこの世界に生まれてきたという人は、ひとりとしていません。



そしてまた、今日のこの命を生きるためには、
毎日何かを食べていなければ、生きていけません。

米も、麦も、肉も、魚も、野菜も、卵も、すべては命です。
自分以外の命をいただいて、自分の命として、生きているのです。

永遠の命のつながりのなかにある、ひとつの命として、私は生かされています。
命のつながりのなかに育てられて、生かされています。 つながりのなかに、あるのです。
命のつながりのなかにあって、命から離れてあることは、決してありません。


この私は、いずれ死んでしまうようなことがあったとしても、

いまを生きるこの命は、永遠の命とともにあって、なくなることはありません。

このことだけは、私たちが疑いなく、信じるべきことです。







阿弥陀( アミダ )とは、
無量の光明と寿命( 永遠のひかりといのち )の意味だと、先ほど言いました。

「 光 と 命 」という二つに分けて言い表されるそれは、

( 光という命 )であり( 命という光 )であり、つまりは( ひとつ )ということです。



それはまた、( まことの心 = 裏表のない心 = ひとつの心 )ともいえます。

命を輝かせて、いきいきと生きていてほしいという、( 光と命の願い )なのです。

そのことを、私たちを生かし育ててくださる( エネルギー )と言い換えてもよいでしょう。



約2500年前のインドで、35才にして( 真実・真理 )に目覚められたお釈迦さまが、
その身をもって体得された悟りの境地のことを( 涅槃 )といいます。

お釈迦さまの悟りについて知ろうにも、「 涅槃 」について分かろうと思っても、
私たちの浅はかな「 思慮分別 」では、到底分かるはずがありません。

なぜならそれは、私たちの意識や認識を遥かに超えた( 無分別 )だからです。

時空を超えて、この宇宙に遍満するそれは、
私たちの思慮分別を遥かに超えてある( 不可思議 )なのです。



私たちは社会的な日常生活のなかで、様々なことに分別をつけながら生きているわけですが、
思慮分別の基準となるのはいつも、自己中心的な自分の価値観です。

このちっぽけな「 自分自身 」です。


自と他を「 分別 」しながらにしか生きられない私たち一人一人を、
それらのすべてを遥かに超えた( 無分別 )が、
私たちを等しく照らし、生かし、見通し、見護ってくださっています。


極楽なんて世界があるわけない。 阿弥陀仏なんているわけない。

本当だろうと信じる人もいれば、嘘だといって疑う人だって、必ずいるはずです。

なぜならこの娑婆世界は、そういうふうになっているからです。

ある一つのあり方には、必ずもう一つのあり方が起きてくる、
二つに分かれる「 相対性の世界 」だからです。


けれども、そんな私たちのことはすべてお見通しで、私たちを導くための仮の手段として、
ただひとつの( 願い心 )そのものが、「 方便 」として、その姿を現されています。

それは「 阿弥陀如来 」というお名前とお姿をもって、
光であり、命であり、心であり、さまざまに現われるものとして、
それのあることを、私たちに知らしめようとしてくださっているのです。

分別的な存在として、色や形や言葉にならないと、私たちには認識ができません。

私たちに気づきようのないことを、どうにか気づかせようとして現れてくださった、
切実なる( 願い心 )がこの「 尊像 」、すなわち( 阿弥陀如来 )の尊いお姿なのです。

ただひとつの( 願い心 )に気づいてくれよと、ただひとつの( 願い心 )そのものが、
私たちの前に、現れてくださっているのです。

心を以って心を伝えようとする( 以 心 伝 心 )のお姿なのです。






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