相対性の世界に生きる私たちには、永遠なるものと向き合うための「 対象 」が必要です。

此方から彼方へといった、「 方向 」が必要なのです。


いまここにある私が、阿弥陀さまという対象に向き合って( 南 無 阿 弥 陀 仏 )と称える。

そうすると、( なむあみだぶつ )のお念仏のなかに、如来と一つなのです。


自と他が( ひとつ )になるのです。

仏教では「 一如 」。 英訳するなら( O N E N E S S )です。



そのお姿の手の形を「 印相 」と言いますが、それは、私たちに向けられた「 サイン 」です。

阿弥陀さまは、親指と人差し指をかるくつけて「 OK 」のようにして、
右の手を上に、左の手を下の方にして、私たちの方に向けられています。

これは「 サイン 」です。 私たちに向けられた( 願いの印 )なのです。


右の手は「 大丈夫 いつでもどこでもあなたのことを見護っていますよ 」

左の手は「 かならずあなたを救いとって見捨てることはありません まかせなさい 」

という意味を現わしています。


そういう( 心 )を現わしているのです。









世界に向けて仏教の思想を広められた仏教学者の鈴木大拙先生は、

『 真宗入門 』という講演録の中で、

「 浄土はまさしくここにあり アミダは実はわれわれ自身 」

と、禅者らしい簡潔な言葉で、そのことを語られています。








極楽浄土は、宇宙の遥か彼方にありながら、

この宇宙のすべてに、満ち満ちてあるものであって、

いまここにある慶集寺の本堂も、極楽浄土のなかにあります。






代々この慶集寺に訪れられたご縁の方々の、

心をひとつにしてお参りされてきた阿弥陀さまが、

今日、慶集寺の外へと、お遷りになられます。


その光は、晴れた日も、曇りの日も、雨の降る日も、嵐の日も、

どんな日にも私たちを照らし、

私たちを生かし、育て、励まし、見護ってくださっていました。


その光と命は、永遠の過去から、永遠の未来にまで、永遠に輝き、死ぬことはありません。


いつでも、どこでも、

いいときにも、わるいときにも、どんなときにも、

なむあみだぶつの声に、阿弥陀さまと私たちは、( ひとつ )です。


私たちは、( いまここ )に、生きています。







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