二〇一三年 五月 六角堂にて 慶集寺住職 講演録 ①



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本テキストは、富山県射水市新湊の「 カフェ uchikawa 六角堂 」にて
2013年5月29日に開かれた『 夜寄るカフェvo4. 』での講演録に加筆編集したものです。



【 ① 慶集寺に生まれて 東京から そこに還るまで 】

名前は「河上朋弘」。仏縁の朋(とも)を弘(ひろ)める、という意味を込めて、父に名付けられました。現在は、法名(僧侶としての名前・釋 朋弘 しゃく ほうぐ)をいただいて「かわかみ ほうぐ」と名乗っています。1969年生まれの43歳、妻と子ども3人(小5女、小3男、1歳半男)そして、83歳父と78歳母の7人家族。子どもと年寄りの家庭内中間管理職で(笑)、浄土真宗本願寺派の寺院「琳空山 慶集寺」の十八代目住職です。

お寺の山号は、"比叡山" 延暦寺や "高野山" 金剛峯寺など、古来お寺は山の中に在ったことより由来して寺号の前に付けられます。「琳空山(りんくうざん)」という山号にある「琳」の字はチーンとかゴーンとかいうような鐘の音を表すので、「鐘の音の響くところ」といった意味。そして「慶」の字を「人生のよろこび」といただくなら、「慶集寺(きょうしゅうじ)」で「出会いのよろこびの集まる寺」の意味になります。寺紋は球体に「花菱」を貼付けたような、全国的にもあまり見ることのない珍しい紋です。

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自分が住職をしているお寺のことを言うのもなんなのですが、山号も寺号も寺紋も、とても好きです。鐘の音の響くところに、出会いが集まり、心の花が開いて広がる、みたいなイメージ。代々の住職と自分には、時代を超えて通じる好みというか、似た感覚があるように思います。代々受け継がれてきた何かが、自分のところまでつながっているのかもしれません。

お寺は富山市の東岩瀬町という、江戸中期から明治期にかけては北前船の日本海交易で栄えたといわれる古い港町にあります。本堂は百数十年前の古民家を移築再利用したもので、30人も入れば満堂になるほどの小さなお寺です。地震でも起きたら倒壊しかねないような古い建物ですが、こじんまりとして落ち着いた雰囲気のあるお寺だと思っています。父が先代から引き継ぎ住職を勤めていたそのお寺に、姉二人の末の長男として生まれたのが私です。


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今も毎日お勤めしている正信偈は、小学三年生の夏休み、ラジオ体操のあとに姉達と一緒に父親と練習したのが最初だったと思います。十代の頃の私は、良か不良かといえば、良ではない方。大人の言うこと「キカンヤツ(富山弁でヤンチャモノ)」でした。お寺の息子だというのが恥ずかしくて、それを言われるのが嫌で(笑)。 けれども得度(僧侶資格)は高校一年生の夏休み。リーゼントを丸坊主にして、京都の西山別院に行きました。特別両親に行けと言われた記憶もないのですが、なんとなく、今のうちに行っておこうと、思ったんでしょうね。二週間みっちり合宿。とにかく毎日正座で脚が痛くって、全国から集まった寺の跡取り小坊主たちがヒイヒイいいながら修行してたのを思い出します。

得度合宿が終わって二学期になったら、習ってきたお経や仏さまのことはすっかり忘れて、また一層遊びの方に専念しはじめました。一応は富山の進学校に在籍していたのですが、とにかく高校時代の三年間は勉強した記憶がありません。電車を降りても学校はいかずに溜まり場の喫茶店、4人集まれば学ラン脱いで雀荘に直行みたいな日々。まんまと大学浪人です(笑)

浄土真宗のお寺の跡取りは京都にある宗門校の龍谷大学に行くことが多いのですが、私はまったくそちらの方に進む気は無く、一浪して早稲田大学の第二文学部に入学して、演劇学科の映画専攻を選びました。そのころは寺を継ごうなどとはとても思えなくて、自分はもっと別なことがしたい、できるはずだ!と思っていました。青年期にありがちな自意識過剰。だったのだと思います。

昼間はいろいろなバイトをして夜は大学。貯めたお金で方々を旅しました。23歳のときに放浪したインドとネパールは、仏教の勉強を目的として行ったわけではなかったのですが、僧侶としての今につながる大きな経験が得られたと思います。世界にはいろいろな人がいていろいろな文化があっていろいろな生活があって、それでもどこか通じる何かがある。旅で学んだことは多いと思います。大学での勉強よりも、社会での実践勉強の方が熱心でしたね(笑)

なんだかんだやってるうちに大学には6年間在籍させてもらいました。聞く耳持たないヤツに何言ってもしょうがないと、見守ってくれていたのか。両親もよく好きにやらせてくれたと思います。人の親になった今、それを思うと、本当に頭が上がりません。

大学をどうにか卒業してからも富山に帰ってお寺を継ぐなんて心境にはなかなかなれず、いろいろな仕事をしました。レコード会社のアート部門の仕事をしたり、インターネットのHP制作の仕事をしたり。都心でいわゆるマスコミ・クリエイティブ系の仕事をしてたのですが、その間々に休みをとって、数回に分けて京都で僧侶教師(住職)の資格を取得しました。 田舎の寺の住職なんてまっぴらごめんと思って、楽しげな都会の生活を過ごしながらも、やっぱり生き方に悩んだり落ち込んだりしたときには、仏教に何かを求めていたのだと思います。そしてやっぱり、寺の跡継ぎであるということは、なかなか頭から離れなかったのだと思います。

東京生活も10年になると、やりたいことにもやらなければいけないことにも行き詰まり、ズドーんと落ち込みました。今になって思うと、その頃がいわゆる「就職氷河期」の始まりだったんでしょうね。転々としてきた仕事を見つけるのもなかなか難しくなってきて。それまでの生活のリバウンド、ですかね。その頃はかなり精神的にもまいってたと思います。このままではいけない、なんとかしなければと思って、当時同棲していた彼女とはじめたのが「リンクエイジ」というホームページです。その年1997年は地球温暖化会議が京都であった年でNPO法人法が施行された年だったりもしたので、環境問題をテーマにしたNPOやりながらインターネット使った仕事できないか、なんて考えて。けれどもその時のやっとかっとの状態でできたことといえば、ひょうたんの栽培日記、ぐらい。いまでいうブログのハシリですよね。当時はいまみたいにインターネットが普及してる訳でもないし、誰も見てないようなホームページをほぼ毎日更新したりして、ほとんどリハビリみたいな生活でした。


そのひょうたん栽培もぜんぜんダメで収穫は1個も無し。もう完全に行き詰まってしまった気分で、もう一度人生やり直したい、ぐらいに沈み込みました。どん底まで落ちたらそこからは心機一転、一緒に暮らしていた彼女、現在の奥さんと入籍して2人で富山に移住、寺に入ることを決意しました。私はUターンですが、神奈川に育った妻はIターン。素性もよくわからない当時の私と、しかも坊主になるなんていってる私と、よく一緒に富山で暮らそうと思ってくれたものだと思います。そのことを言うと妻は「なんにも考えてなかった」というのですが。
おかげさまで助けられたと、本当に感謝しています。

富山で生まれ育った18歳までと東京生活の10年間を振り返ると、西遊記の孫悟空のように、結局は仏さまの手のひらの上にいたような感じがします。自分自分と我を張って、暴れてもがいてみたものの、寺に生まれた仏縁は、切っても切れないご縁だったのだと思います。小さい頃から寺の空気を感じながら、その中で育ってきた自分にとっては、やっぱり仏さまとのご縁からは、逃れることができなかったのだと思います。

2013年の今、寺に戻って15年目になりますが、両親や門信徒の皆様方など、これまでの私を大きな心で見守ってくださった方々には、心から感謝しています。これまでにしてきた悪業を思い返すと身悶えするような気持ちにもなりますが、いまとなってはすべてがかけがえのない経験だったと思うし、その時々に出会ってきた人たちは、いまの自分の大切な一部になっているように思います。これまでのことは懺悔してもしきれない私、それでもなかなか懲りない不肖の私ですが、改めるべきところを素直に改め、与えられた慶集寺住職としての役割を、精一杯に果たさなければ、精進しなければと、心から思っています。そう思えるようになった今を、生きていてよかったなあと、思えるようになりました。



六角堂にて 講演録の続き
「② 住職になって 時代に応じたお寺であるために」



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