⑧ 称 名 報 恩




[ 善知識 よきひと ]

この世界に、人間として生まれ、そして死ぬまでのあいだ、善悪の分別にとらわれて、
そのあいだを揺れ動き、心を迷わせながら生きざるを得ない「 凡夫( = 悪人 )」にとって、
完全なる( 善 )とは、無分別の境地から、悠々と常にいまここに現れる( お念仏 )です。

( 南 無 阿 弥 陀 仏 )と声にして称えることで、
「 信心( まことのこころ )」が、こんな私のところにも、
( いつもどこでも すぐそばにいるよ )と気づかせてくれます。

これこそが「 善悪 」の分別を超えてある( 善なる行い )です。


お念仏を称えながらこの人生を生き抜こうとする念仏者にとって、
その教えを伝えてくださった先人方は、このうえない無上の( 善人 )です。

善悪の分別を、悠々として遥かに超越した( 善なる人 )です。

浄土真宗では、念仏の教えの先人方を「 善き人( よきひと )」と呼んで尊びます。


釈尊より脈々と流れる浄土の教えを伝えてくださったインド・中国の高僧方や、

日本仏教の先達、法然上人、親鸞聖人、諸々の先輩方、

この私へとつながるご先祖様方や、先立たれたご縁の方々、すべてのお念仏の先人方は、

この苦しみの娑婆世界から、もうすでに極楽浄土に往生された( よきひと )なのです。



『 仏説阿弥陀経 』には、

諸 上 善 人 倶 会 一 処 ( しょじょうぜんにん くえいっしょ )

という経文があります。


お念仏を称えて、自然のままに往生された( 善き人 )は、
みんなそろって、極楽浄土という「 一処( ひとつのところ )」で、
阿弥陀仏とひとつになって、みんなが一つになってお会いしている、というお心です。



『 教行信証 』のなかで親鸞聖人は、中国の道綽禅師のお言葉を引用して、

前に生まれんものは 後を導き 後に生まれんひとは 前を訪え

前に生まれた者は 後に生きる人を導き
後の世を生きる人は 先人の生きた道を問いたずねなさい

と、私たちに呼びかけつつ、その大著の最後を結ばれます。


「 前に生まれた者 」とは、先立って浄土に生まれられた方々のことをいいます。

( 南 無 阿 弥 陀 仏 )と称えて、既に浄土に往生し、成仏された方々は、
かならずこの娑婆世界に( 南 無 阿 弥 陀 仏 )という真実の願いの呼び声となって、
間違いなく私たちを導き救ってくださるのだという、心強いお言葉です。

それはまた、これから先に浄土へ往生しようと覚悟する者は、
( 南 無 阿 弥 陀 仏 )の真実の願いの呼び声となって、
後に続く人々をかならず導き救おうという、力強い誓いのお言葉でもあります。



「 後の世を生きる人 」とは、いままさに娑婆世界を生きている「 私たち 」を示しています。

既に浄土に往生された方々が、どのようにしてこの娑婆世界を生き抜かれたのかを、
よく見習い、それに学んで、どうか同じ( 信心 )をいただいてください。

そんな( 願い )のお言葉です。


諸 上 善 人 倶 会 一 処  一つの処で また倶に お会いしましょう

そのときが来るまでは いつでもどこでも すぐそばで あなたの幸せを願っていますよ

 

静かな願いのお心が、淳く心にとどいてきます。




[ 親鸞聖人の遺言 ]


聖人は最晩年にも精力的に執筆を続けられ、
関東の門弟たちとの手紙のやりとりも続けていらっしゃいましたが、
ついに没年の十一月初旬の頃から、寝込むようになられます。

それでも最期を見守る近親者たちに、

一人居て喜ばは 二人と思うべし 二人居て喜ばは 三人と思うべし
その一人は 親鸞なり


と語られたそうです。


一人でお念仏を称え喜んでいる人は、一人ではなく、二人なのだと思いなさい。
二人でお念仏を称え喜んでいる人は、二人ではなく、三人なのだと思いなさい。
そのもう一人とは、この私、親鸞です。

わたしが阿弥陀仏の呼び声に導かれて極楽浄土へ往生をとげたときには、
ただちにこの娑婆世界に( 南 無 阿 弥 陀 仏 )の声となって還ってきて、
みなさんを同じ極楽浄土へと導きましょう。 だから、安心してください。


そんなお心を、最期まで私たちに向けて、語られたそうです。




聖人が語られたもう一つの遺言として、

それがし 親鸞 閉眼せば  加茂河にいれて魚にあたうべし

と語られたことも、伝えられています。


この世の縁がつきて、人間としての命が終わるならば、
息をひきとると同時に間違いなく極楽浄土に往生し、
南無阿弥陀仏とひとつになれるのだから、
私の亡骸には、何ら意味を保つものではない。

京都の町を流れる鴨川にそれを流せば、やがてはひとつの海へと辿り着くだろう。
魚たちの餌となって、大いなる自然のなかの命となって循環するのならば、
それこそがありのままの命の、自然にまかせた在り方のはずだ。



聖人は最期まで、浄土真宗の教えを徹底して、人々に伝えようとされました。






親鸞聖人は1262年11月28日正午、京都にある弟の寺院の一室で、
享年90歳をもって往生されました。

その臨終は、弟や末娘ら、わずかな身近なひとたちだけで、
静かに看取られたといわれています。

臨終の際、聖人の口をついて出る言葉は、
なまんだぶ、なまんだぶ という声ばかりになり、
ついにお念仏の声とともに、あたりまえのような一日のなかに、
静かにその生涯を終えていかれたといわれています。

人間としてごく普通の最期にみえて、
真に人間らしい、威厳のあるお姿であったことと、

心からの尊敬の念をもって、その一代の生涯を偲び、
これからの学びにつなげさせていただきたいと思います。


合掌


南 無 阿 弥 陀 仏




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