⑦ 悪 人 正 機




私たちが浄土真宗の教えを学ぶための重要なテキストとして、
『 歎異抄(たんにしょう)』という有名な書物があります。

これは親鸞聖人自身の著作ではなく、聖人が関東で布教伝道の生活をされていた時代に、
長く聖人のそばに仕えていた唯円(1222-1289)というお弟子が、
聖人の没後、念仏の教えが誤解されて広まっている状況を嘆いて、
正しく教えを伝えるために書かれたものだといわれています。

そこには直弟子である唯円が、後年にまで心にとどめて忘れなかった聖人のお言葉が、
失われぬ生命感をともない記されていて、人間・親鸞の魅力を、いきいきと伝えています。



『 歎異抄 』には「 悪人正機( あくにんしょうき )」と呼ばれる教えを示す、
「 善人なほもつて往生をとぐ、いわんや悪人をや 」という有名な言葉があります。


「 善人でさえ往生できるのだから、まして悪人が往生できるのは、なおさらのことなのだ。 」

 という意味の言葉です。


 私たちの一般的な感覚でこれを聞くならば、

「 悪人でさえ往生できるのだから、善人が往生できるのはもっともなことだ 」

 と考えるのが、普通のことのように思われるところです。


けれども聖人はここで、善人と悪人という二つの概念が、
さかさまになっているかのようにも思われる言葉を語られます。

一度聞いただけでは理解し難いこの言葉を、
聖人の『 正信偈 』にある「 一切善悪凡夫人 」という一文に基づいて、

自分の胸に手をあてながら、考えてみましょう。



[ 一 切 善 悪 凡 夫 人 ]


「 すべての 善人も 悪人も どのような凡夫も 」とも読まれるこの一文は、

一切の人々を ① 善人 ② 悪人 ③ 凡夫(普通の人)の3つに分けているようにも、読めます。

では、仮にそうして、自らを振り返ってみるならば、

私自身は、善人なのでしょうか? 悪人なのでしょうか? 
それともまあ、どちらともいえない、普通の人なのでしょうか?

そんな私たちは、果たして極楽浄土に、往生できるのでしょうか?

それとも、やはり、地獄落ちなのでしょうか?



自分自身を振り返ってみるなら、

時には善人になってみたり、 ある時には悪人になってみたり、
まあだいたいは普通なんじゃないかな、 なんて思って、 何も考えていないような、

そしてまた、他人を自分の勝手な判断で、善人にしてみたり、悪人にしてみたり、

そんなところが私たちの、現実の有り様なのではないかと、思います。



ここでもう一度[ 一 切 善 悪 凡 夫 人 ]の一文を、

「 善人だ 悪人だといわれる 一切の凡夫は 」という意味として読んでみるならば、

私たちすべての人間を指して「 凡夫(ただびと)」と呼ばれていることに、気づかされます。



私たち人間はみんな、自己中心的な価値基準で、自分勝手にものごとを判断します。
私たちはそれぞれに、自分の都合良く、思い込みで善悪の判断をしてしまいます。

大体ほとんどのことは、自分の色眼鏡で見たり、自分のものさしで計ったり、
そんなことばかりです。

相手が正しいと考えることを、自分は間違っていると考え、
自分が正しいと考えることを、相手は間違いだと主張してくることは、よくあることです。

私がいつも賢いわけではないし、必ずしも相手が愚かなわけでもありません。

お互いただの人間、( 凡夫 )なのです。


好き嫌いや、勝ち負けや、損得や、敵味方の分別をつけて、
それにこだわっているのは、私たち人間に通してみられる性質であり、人間の本性です。

そこでの判断基準とは、各個人によってそれぞれ異なり、どれ一つとして同じではないので、
あくまでもそれは、ひとそれぞれに「 相対的 」なものでしかありません。

そんな「 かりそめ 」のものに右往左往し、心を迷わして生きる私たちは、
怒り(いかり) 腹立ち(はらだち) 妬み(ねたみ) 嫉み(そねみ) 欲(よく)の多い、

どうしようもなく「 煩悩 」にとらわれた存在だと言わざるを得ません。



すました顔で、さも悟っているかのように見える人であっても、

その心の正体は、それほどに人と変わらないようにも思われます。

仏さまから見れば、そう大差なく、同じではないかと思うのです。



自分のことを「 善人 」と思いこむことがあります。

同様に自分のことを「 悪人 」と思い込むこともあります。



けれども、そんなちっぽけな自意識に翻弄されて迷い、悩み、苦しんでいるのが、

「 愚かな私( = 我 )」に過ぎないことに気付けば、

少なくとも自分が「 善人 」であるなどとは、いえなくなるのではないでしょうか。



善人でさえ往生できるのだから、まして悪人が往生できるのは、なおさらのことだ



聖人がいわれる[ 善人 ]とは、自分の力で善行を積んで、
自分の力で極楽浄土への往生を、試みようとする人です。

本当にはからいなく自然体で行う善行であれば、
我執のはたらきをひとに感じさせるようなことはないのかもしれませんが、

偽善のようにも感じさせるふるまいには、過剰な自意識が根底にあることを伺わせます。


いつでもどこでも自然体で、思い通りに「 善 」を行うことのできる人など、
この末世に、果たしているのでしょうか。


本当に自分のすべてを投げ打ってまで善行を尽くせる人は、そうはいません。
仮にそう思ってそれを努めたとしても、人間の善行には、限界があります。

人は、生まれたかぎりは、歳をとり、病いにもなり、そしてかならず、死にます。

人間が人間である限りは、人間であることの限界が、かならずあるのです。

好き嫌いや、勝ち負けや、敵や味方や、損や得や、
善悪のこだわりといった「 分別心 」を、まったく持たないという人はいません。


けれども、そんな人間の分別や限界をはるかに超えて、善人も悪人も分け隔てなく、

極楽浄土へ往生させようとする( 阿弥陀仏の本願力 )は、
人間の持つ自己中心の分別心を超越してはたらく( 無分別 )です。

他力本願のはたらきによっていただく( 信心 )は、
無限 無量 無辺 不可思議の ( 無分別 )です。

無分別の ( 智慧と慈悲 )そのものです。


自意識に固執して( 他力 )にまかせきることのできない「 自力の善人 」に対しても、
仏の心はいつも見護り「 無上仏( 色も形も無く このうえなくすぐれた仏 )」になるまで、
その人を見捨てることはありません。

常に願い、照らし、護ってくれます。 願いの呼び声を、放ち続けてくださいます。

なぜならそれは、人間存在をはるかに超えた( 大いなる自然のはたらき )だからです。



人間として日々生活する私たちの心の在り方を、ありのままに見つめてみるならば、
どんなに頑張っても、自己中心の我の心を捨てきれないのが、その本性ではないでしょうか。


「 悪人 」とは、どんなに自分の力で修行しても、
どうしても煩悩を捨てられない人のことをいいます。


わかっていても、やめられない、私たちのことです。

わかっていても、やってしまう、 私のことです。


そんな、私たち「 凡夫 」のことを、( 悪人 )といいます。


自力の限界に気付いたひとりの( 凡夫 )は、永遠の不可思議なる仏の力に、
すべてをまかせきることのできる、ひとりの( 悪人 )です。

すべてのものを救おうと願い誓われた阿弥陀仏の「 正機( めあて )」とは、
凡夫であり、悪人である、 このひとりの( 私 )なのです。

この( 私 )こそが、( 南 無 阿 弥 陀 仏 )に救われるべき、ただ( 一人 )なのです。




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